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テーマ:猫のいる生活(136426)
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秋吉敏子さん、この希代のジャズピアニストは1929年(昭和4年)生まれだから、もう90歳かぁ。
まだ存命で演奏を続けてるらしいですね。 「中国は私の故郷」「日本は私の国」「アメリカは仕事場」言葉通り、秋吉さんは満洲生まれです。 と、云ってもご両親は2人とも日本人。 大連音楽学校でピアノを習い、敗戦後は大分県に引き揚げ、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でジャズピアニストとして演奏を開始したのがプロとしてのデビューです。 戦後1年余りの1946年(昭和21年)10月からようやく日本人相手の商売をするようになったらしいですから、それまではどのダンスホールも米兵相手の商売だったのですね。 どのダンスホールも生バンドの演奏で、日本人相手になってからは付加税という税金がついて、チケットの値段が実質2倍になったらしい。 つるみダンスホールで演奏を続けてるうちに、仲間のミュージシャンに勧められて秋吉さんが上京したのは1948年(昭和23年)のこと。 その頃の東京には、まだまだあちこちに駐留軍のキャンプがありました。 そこでは夜ごとにさまざまなエンターテインメントが提供され、旧日本海軍や陸軍の軍楽隊出身者と上海あたりのボートで演奏していたミュージシャンたちが親玉みたいな感じで演奏しつつも、とてもそんなことでは奏者が足りない。 楽器が弾ければ、いくらでも仕事があった時代だったのです。 戦後初のモダンジャズコンボ「飯山茂雄&ゲイセクステット」が結成されたのが終戦翌年の1946年。 進駐軍の将校クラブで歌った日本のジャズ歌手の草分け"ナンシー梅木"は後に渡米して女優となり、1957年のハリウッド映画「サヨナラ」で東洋人初のアカデミー賞を受賞しました。 そうした仕事に飽き足らず、秋吉さんはアメリカから輸入されたレコードを聴きながら、本格的なジャズの演奏に開眼していきます。 当時、日本では、ダンス向けのスウィング・ジャズに人気があり、戦時中、アメリカに登場したビバップと呼ばれるモダン・ジャズには関心の目が向いていませんでした。 ミュージシャンにも、それがどのような理論と仕組みで演奏されているのか分からない。 まさに手探りの状態で、秋吉さんを中心とした一部の熱心なミュージシャンは、最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通い、それらのコピーに励んでいました。 しかし「そういう演奏はお客さんに受けない」と、何度も店をクビになったそうです。 それでも秋吉さんはめげない。 1951年(昭和26年)、ついに本格的なビバップを演奏するグループとして秋吉さんは自身の「コージー・カルテット」を結成します。 このバンドはメンバーの病気で短命に終わりましたが、1953年に再出発しました。 当時のジャズバンドは、仕事のあるときだけ集まり、仕事が無いときはメンバーそれぞれが個別に仕事をこなすと云うのが珍しくありませんでした。 そうすると必然的にメンバーの出入りや代役の起用がひんぱんに起こります。 秋吉さんはそれを嫌いました。 せっかく自分が信じるジャズを実現できるメンバーを集めても、肝心なときに居ないこともあり得ます。 それを避けるため、仕事の有無に関わらず、月給制を敷いたのです。 それはメンバーにとっては有難いことですが、バンマスの秋吉さんはタイヘンです。 需要が有るダンス音楽やディナーミュージック(食事中のBGM)をやれば稼げるのですが、それでは自分のバンドを持ったイミがない。 かと云って、それらを拒めば仕事は限られてきます。 そこで、秋吉さんはコージー・カルテットに仕事が入っていないときはアルバイトで演奏をすることにします。 それでも、アルバイト代は全てメンバーの給与に消えてしまいました。 「やりくりは大変でした。メンバーの給料を払うため、自分の着物を質に入れてしのぐこともありました」。 それでも、自分の選んだ曲や、わずかですが、自分の作った曲を誰に気兼ねすることなく、好きに演奏できることに無上の喜びを感じていたのです。 1953年(昭和28年)日本のジャズクラブの走りと云っていい銀座の「テネシー・コーヒー・ショップ」がオープンしました。 テネシー・コーヒー・ショップは午前11時~午後11時までライヴ昼夜2部制で営業。 石原裕次郎が映画「嵐を呼ぶ男」の劇中で「おいらはドラマ~」と云う歌をドラムを叩きながら歌っているジャズ喫茶のシーンはテネシーでロケしたか、モデルにしたセットらしいです。 当時、大人気だった渡辺晋(後のナベプロの創業者)のシックス・ジョーズがテネシー・コーヒー・ショップのステージをまかされました。 その渡辺が秋吉さんに「夜を俺がやるから、昼は秋ちゃんが好きなことやっていいよ」と仕事を回してくれました。 秋吉さんは宮沢昭(テナーサックス)、海老原啓一郎(アルトサックス)らと組んだクインテットで昼の部をこなし、夜はコージー・カルテットを率い「ニュー銀座」と云うクラブで演奏してました。 ここから秋吉さんの人生は大きく変わります。 テネシー・コーヒー・ショップのオープン間もない11月、アメリカのプロデューサー、ノーマン・グランツ率いるJATPが来日公演をおこないました。 そのメンバーのひとり、「鍵盤の皇帝」オスカー・ピーターソンがテネシー・コーヒー・ショップにやってきて、秋吉さんの演奏を聴いたのです。 1曲終わって、2曲目を披露してる時に、ピーターソンが秋吉さんの弾いてるピアノのところに歩み寄り「夜もどこかでやってるか?」と聞きました。 思わぬ展開に秋吉さんは心臓が爆発しそうでしたが、場所と時間を伝えると、夜、自分のコンサートを終えたピーターソンが、秋吉さんの出演しているニュー銀座にやってきたのです。 ピーターソン自らもピアノを弾き、クラブは大騒ぎ。 終わると、「話があるから、明日、ホテルにきてほしい」と告げたのです。 翌日、秋吉さんがホテルにピーターソンを訊ねると、ピーターソンはプロデューサーのグランツを呼んで、秋吉さんのピアノを絶賛し、「彼女のレコードを出すべきだ」と訴えたのです。 グランツは「君が勧めるのだから、私があれこれ云うことはない」とあっさり承諾。 何と、その場でレコーディングが決まってしまいました。 秋吉さんにとって初となるこのアルバムはグランツの経営するアメリカのレコード会社から「アメイジング・トシコ・アキヨシ」と云うタイトルで発売されました。 秋本さんは「アメリカに行ったこともないのにと、何とも不思議な気持ちでした」と語ります。 ただこのことが秋本さんの「アメリカに行きたい」と云う気持ちに火をつけました。 このレコーディングでアメリカ行きは「夢」から「目標」にかわったのです。 ある日、日本で発行されるアメリカ人向け新聞のカメラマンが訪ねて来て「ノーマン・グランツから君の写真を撮って欲しいと頼まれた」と。 よく事情がわからないまま撮影したところ、数か月後にグランツから、音楽誌「メトロノーム」が送られてきました。 その雑誌には、先日撮った写真が入った極東のピアニスト秋吉敏子を紹介する2ページの特集が掲載されていたのです。 それからまもなく、アメリカのバークリー音楽院から入学許可と学費免除を知らせる手紙が届きました。 身元保証人は学校がなってくれると云う。 こうして1956年(昭和31年)1月、学校のあるボストンに渡ることができました。 しかし、この時代に渡米すると云うことがどれほどタイヘンだったでしょう。 1$=360円の時代です。 日本人が一定の条件下で海外渡航できるようになったのは1947年になってからです。 日本の外航客船サービス(飛行機で渡航はできません)は、太平洋路線としてアメリカのアメリカン・プレジデント・ライン(APL)か、1953年に日本郵船が1隻だけ残った「氷川丸」をシアトル航路に復帰させたもののみです。 では秋吉さんが自分で作ったコージー・カルテットはど~なったのでしょう? 秋吉さんはメンバーでもっとも信頼できる人物にバンマスとして後を託したのです。 その人は...サックスプレーヤーの"渡辺貞夫"さんです。 秋吉さんは、ボストン到着日の夜、市内のジャズクラブ「ストーリーヴィル」に直行します。 ビバップスタイルの第一人者、ピアニストの"バド・パウエル"が出演することになっていたからです。 長旅の疲れも忘れ、駆けつけると、パウエル共演のドラマーが偶然にも来日したとき知り合った"エド・シグペン"。 シグペンは喜んで、秋吉さんをパウエルに紹介しました。 それだけではなく、ライブが始まるとステージに上げられられ、演奏させてもらうことに。 それを聴くパウエルは手をたたきながら大喜びしていたのです。 クラシックとジャズの1番の違いはね、例えばレコード屋さんに行って「(ベートーベンの)No.5はありますか」って買い方ができるわけね。 ところがジャズの場合だと「オーバー・ザ・レインボーありますか」なんて買い方はしない。 「オスカー・ピーターソンありますか」ってなります。 クラシックと違ってジャズは曲は関係ないわけです。 大切なのは誰が演奏してるか。 全く同じ曲でもオスカー・ピーターソンと、アート・テイタムと、私が演奏するのと全部違うわけなんです。 クラシックは曲を堪能する。 ジャズはプレーヤーの演奏の仕方を堪能するわけです。 日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的なジャズピアニストの活躍のきっかけはオスカー・ピーターソンとの偶然のめぐりあいだったのです。 渡米したての秋吉敏子さん。着物姿でピアノを弾いてます。 Toshiko Akiyoshi Piano Trio お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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