春の嵐で思い出す
毎年あったはずだけど、毎年そのときになると、ああまたきたなという思いをする、春の嵐。まさに、昨日今日の天気。しっかり咲いていた桜の花びらは全部風に散り、寒い気温と横殴りの雨で、びしょ濡れにならないようにレインコートを引っ張り出す。衣替えのつもりでコートをしまったのに。昼間の街には新学期始まる前の子供があふれる。平日昼間っから遊んでんじゃねぇ、学校はどうした?といいたくなる。春夏冬と、学生はお休み天国だ。そして東京の4月はちょっと変わる。新社会人になったばかりとひと目でわかる、背広に着せられているのにいっぱしの口をきいている若者。4月はそんな若者で通勤電車が混む。東京で4月研修を終えたら、日本全国に配属されて東京からいなくなるのだろうか。5月からフレックスをいきなる使うのだろうか。4月だけ混むのが不思議である。春の嵐を体験すると、ボクは昔の就職時期を思い出す。入社式の日も、春の嵐が吹きすさんでいたからだ。そしてそこからはじまった、嵐のような日々は忘れられない。ボクが就職した年は、バブル景気がはじけた直後。はじけてすぐの頃は、社会的にもあまり危機感がなかった。だから、上場会社であれば、新入社員研修はまだ、たっぷり1ヶ月以上は行っていた。すぐ現場にほっぽり出す今より、ずいぶん手厚い環境だったのだ。ボクが最初に入った会社はなかでも特殊で、自社の研修施設で3ヶ月みっちり研修を行い、ちょうど夏休み後に現場配属された。それがその会社の伝統であることが、続けている理由だったようだ。3ヶ月の研修の中身?そりゃ、重箱の隅から隅まで、という感じだった。90分ずつの授業形式。講師は各部署から社員が1名ずつと、マナーやビジネスの専門家を社外から招いて。営業は営業の心構えを説き、根性論をたたきこむ。技術者は自分のやっている業務範囲を紹介し、実際に設計させる。経理はP/L、B/Sを作ってみろと練習問題を出す。まったく関係ない業務・部署のことまで、全新入社員に知識を突っ込もうとした、欲張りすぎの研修だ。毎日続く授業は興味のないものが多く、学校の再来を感じ、くだらねぇなぁ、と思ったものだ。今思えば、まぁ貴重な体験ではあった。とはいっても、必要か不要かでいえば、不要だったんじゃないかと今でも思う。社会人の自覚を持たせるといって、監獄のような全員合宿研修もあった。全員施設内の寮の寝泊まりで、朝から夜まで24時間見張られ、外出もできず、ひたすらプレッシャーを与え続ける。精神的に吐き気を催した。学生の意識は確かに「甘い」が、だからといって最初から無理に「つらさ」を与える必要はないとボクは思う。いきなりOJTでも、厳しくしすぎなければ、意欲をなくさずに追い追い理解していくものだ。厳しさを教え込もうとするのは、根性を育てるメリットよりも意欲をなくすリスクのほうが大きい。そして今思えば、その合宿ではかなり「洗脳」に近いことをやっていた。全員が完全に団体行動する。ひとりのミスは全員の責任。起床してマラソンと体操、ひたすら授業とワークショップ。自社の歴史を学ぶ、自社の歴史上の人物の名前を覚える、全員の前で大声で発表する、できないヒトには体力的罰ゲーム。学校卒業したてで、一応は社会人としての意欲を持っている純な学生連中を、一気にダメにする教育だった。それを異常だと感じさせなかったのは、ひたすらプレッシャーを与え続けて考える時間をなくすというテクニックがあったのだろう。時代はオウム地下鉄サリン事件の前だから、「洗脳」という言葉にまだ不気味さが伴わないころだったし、「新入社員は根性を見せろ」的な教育は、まかり通っていたころだ。そう、あの研修は研修ではなく、教育だった。大卒で16年も学校教育を受けて、やっと卒業したかと思えば、さらに就職企業で企業色に染める教育が待っていた。恐ろしい時代だった。当時は今で言うIT企業の勃興期であり、新しい波がきてはいたが、全体としては依然として大企業が闊歩していた。学生の人気の企業だって、大企業。NTT、ソニー、松下、NEC,富士通、日立、などの当時の電機系大企業が、理系学生には人気だった。ボクの最初の企業はここにはないが、ITに手を染める大きな電機会社ではあった。社員教育では「新入社員はどんどん発言しよう」などと左翼的人事部が颯爽と言い放つものの、実際の配属先では右翼的バカ先輩が幅をきかせ、「新人は黙ってろ」と脅される。そのギャップに悩み、入社1年未満で辞める同期も多かった。志を高く持ったがゆえに、クチ八丁の人事部採用担当に騙され入社し、研修教育で洗脳されて「企業人」になったはずが、現場でパワハラされ罵倒され、残業の山を築いて、ぼろぼろになって辞めていく。それは悲惨な光景だった。ボクも後に辞めてみてわかったのだが、この最初の会社は企業としてかなり程度の低いものだった。事業を黒から赤に落としても責任をとらず誤った舵取りを続ける恥知らずな取締役、率先して自ら動かずに下にモノを押しつけてえばるだけの中間管理職、一向にカイゼン志向を持たず昔の方法を繰り返す平社員。結局、ボクがいるあいだに大きく傾いた。取締役クラスの事業方針が相当稚拙だったのだが、事業4本柱のうちの2本が次々に崩れ、ボクのいた事業部は半壊して分離した。株式上場をひきあげ、悲惨なリストラを何度も行い、結局会社規模が半減し、過去の内部留保を全部吐き出して、いまは細々となんとかやっているようだ。自分の席があった本社も、支社も、工場も、あのとき閉じこめられた監獄のような研修施設も、全ての自社持ち不動産が売却され、今は跡形もなくなった。いまは貸しビルにちんまり収まっているようだ。戦略的不動産投資でないことはたぶん確かだろう。外から見ると、持った所有不動産を売り払って特別利益にあて、瀕死の自転車操業状態のようだ。あのままボクが辞めずにいたら、きっと今頃ボクは、あの会社とともに悲惨な運命になっていたろう。あの厳しい新入社員教育を乗り越えた同期とは、いまは連絡さえとれない。ボクのように辞めた人間は、どこかで強く生きていることを願うばかりだし、まだ残っている人間は、ボクらがリストラという形で血として流れ出たから会社として残っているのだ、驕ることなくカイゼンしていけよ、と言いたい。ボクにとって春は、そんなことを思い出す、複雑な季節だ。