食
ボクは10代以前、それなりに食いしん坊だった。それは、運動好きでお腹が減ることもあったし、家でおいしいものを食べられることも理由だった。そんなボクが、親元を離れて一人暮らしをする頃になると、とたんに好きなもの、手に入りやすいものに偏りがちになり、自炊や外食の織り交ぜで、食生活が乱れ始めて、からだは太る方向になっていく。バランスを考えた親の食事のありがたさを、そのときになって感じるもの。一回失敗してみないと本当の反省はできないのだろう。ボクはそういうダメ人間である。さて、そんな20代のころの食の選び方といえば、優先順に、1.価格2.量3.味4.栄養バランス5.雰囲気そこそこ美味しいものを、腹いっぱい食べたい。20代はそんな時期である。価格が前に出ると、どうしてもスーパーのお惣菜、ファストフードに走りがち。自炊するにしても、安いものを買ってまとめて大量に作ってしまう。よって、栄養が偏ったりカロリーがオーバーしがちである。20代は、10代の部活のような激しい運動をしなくなってカロリー消費は少なかった筈。本来ならば食事は生活にあわせて、低カロリー低栄にシフトしていかないとならない。それなのに、20代の食欲というものは、なぜあんなに怪物だったのだろう?その食生活が、成人の身体を蝕み始めるのである。それが、30代になって、食の志向が変わり始める。ボクの場合、優先順位は大きく反転した。1.味2.栄養バランス3.雰囲気4.量5.価格である。それはつまり、「おいしいものを、ちょっぴりずつ。」それまで好きで食べていた、ファストフードやスーパーのお惣菜が、おいしくなくなる。そして食べる量が減り、胃が小さくなり(実感に基づく予想)、量少なくても満腹感が得られる。だからこそ、おいしいもので、満腹になりたい。中途半端なものを食べて胃を満たすと、損をしたような気になってしまう。それに年をとると、すこしの暴飲暴食が、身体に堪えるようになる。消化器系のリズムを壊し、治るまでしばらく食べられなくなることも。人生の楽しみのひとつである「食」を、失う辛さを知ってしまうと、めったなことでは、リスクを犯さなくなるものだ。そうして、ボクは美味しいものを求めるようになる。少なくてウマイものを、お金と相談しつつ、探すようになった。これは、情報が増えて検索しやすくなった、この時代の流れにも乗ったように思う。グルメ情報誌、本、さらにはネット上の情報サイトでクチコミが検索できる。「美味しさ」とは、各人それぞれの主観に基づくものとはいえ、一定の普遍性はあると思う。一流シェフの作る人気料理には、ひととおりの万人がうなずける「何か」があるものだ。ネット上のクチコミの信用度は、けっこう低い。匿名をいいことに、”店のサクラ”による良すぎな書き込みが多い。そんなウソ情報を見抜きつつ、ヒントとして活用することもできる。場所調べまでに活用して、実際その店に行ってみると店構えや店内の雰囲気で、出てくる料理のレベルが知れるように自分が成長していく、自分に驚く。これはなんというのだろう、経験に基づく、法則があるようなのだ。たとえば、テレビによって人気が出た店があるとする。グルメ番組で紹介されたとか、番組の企画で立ち上がった店とか、料理人選手権で勝った人の店とか。形態はいろいろあるが、そのうち半分以上は、美味しくない。そしてそのような店は、十中八九、ボクは外観で見抜くようになった。テレビのヤラセがあったのか、料理人が人気により驕り高ぶったのか。その理由はわからないけど、たいていそんな店は、外から見ておかしいのだ。店員に落ち着きや余裕がない。店内の掃除が大雑把。オーダーの取り違えが多い。2回行って同じメニューを頼んでも、それぞれかなり違う味の料理が出てくる。ひとことでいえば、客の気持を考えていないのだ。そういう「不快」が一度でもあると、もうその店にボクは行かなくなる。どんなにおいしい料理だったとしても、味が安定していなければ、気持ちよく食べられる環境でなければ、行く価値がなくなるからである。行って外観を見て、期待の満足度が得られるかどうかわからんところは、入らない。カネを払ってイヤな思いをするのは腹立たしいことこの上ないからだ。一例として、番組でラーメン選手権優勝のヒトがプロデュースしたというふれこみの店にいったときのこと。ブームはひと段落して、空き始めたころに行ったんだけど、テキトーな清掃の店内と、客を入り口で待たせて気づかないズボラさが、もういやな予感だった。頼んだラーメンは、見た目が斬新なだけで、味は、ぜんぜんダメだった。明らかに、手を抜いていた。見た目を維持するので満足して、本当の味を追求する意欲が、なかった。そもそも、おいしいラーメンを作れる料理人だったかどうかは、怪しい。名人に言われたとおりに作る。そんな料理人は、ボクから言わせれば料理人ではなく、工場でルーチンワークをする作業員と同じである。新しいものを生み出せないし、今を維持することも難しい。食の世界には不要と考えている。「プロデュース」という言葉は便利なもので、ちょっとでも関われば、この言葉を使える、らしい。たとえば、作り方を伝授するとか、メニューを決めるとか、店員を選ぶとか、店の内装の雰囲気だけだったり。テレビの世界から来た言葉なんて、たいていこんな程度の、現実生活では「使えない」言葉である。客から言わせれば食の世界で「プロデュース」は「イカサマ」。その人を信用しているのに、その人レベルの味になってない。店と同時にその人への評価をも下がるリスクを理解して「プロデュース」に名前を貸しているのだろうか?一寸心配してしまう。有名店は、だいたいテレビが絡んで、店がダメになる。店をダメにする悪い客が増えるから。テレビに感化されすぎた客が、テレビで紹介された名物メニューばかりを注文するようになる。店も悪乗りして、一番人気!とメニュー表に大きく書く。ますます1メニューに注文が集中する。それで味を維持できているうちは客も店も蜜月だが、売れないメニューは手を抜くようになり、店を維持する前向きの姿勢が薄らいで、売れるメニューにも油断が起きて、いったん味が揺らぐと、一気に崩れる。そんな店には、同情する余地もある。努力をしてうまいものを用意できるのに、売れない。宣伝力があれば売れるのに。そんな時代の長い、悩み多い店だったならば。けれど、厳しく言えば、売り上げを伸ばしたいとか、有名店になりたいとか、評価、表彰されたいとか、そんなスケベ心でテレビの取材など、うけないほうがよろしい。ストイックに黙々と味を追求しているうちが、料理人の旬である。いつか世間から認められるまで、地道に自分を磨いているうちが花である。そんな上向き時代の店を探し続けるのが、ボクの外食の楽しみでもあるので。悲しいのは、ボクが昔から知っている名店が、テレビに取り上げられて大きく変わっていく様をみるときだ。いつも空いているのに、今日はなぜか大行列!それも一見(いちげん)の客ばかり。昼過ぎには材料使い尽くして閉店。これでは常連の足が遠のく。しばらくすると、いつしか一見客はいなくなる。以前より店はガラガラに。最初は一見によって店が潤っても、いつか一見はいなくなるもので、そのときに店は危機になる。一見のすべてが、その後、常連になるわけではないからだ。常連とは、店の味を好いてくれた、一見のなかから選び抜かれた、貴重な存在なのである。それを店は忘れてはならない。常連に占領されている店は一見から見ると気持ち悪いから、店の常連優遇は、ほどほどにしてほしいけど、逆に常連をはじいて一見ばかりを受け入れるような店は、やがて立ち行かなくなるだろう。そこは、バランスである。ボクは初めての店に「一見」としていくときには、少々複雑な思いで出かける。常連の埋まり具合を観察しつつ、もし気に入れば、自分が常連となって店を支えてやろう、とまで思う。ボクは真剣な客なのである。そうやってボクが常連を続けている店がいくつかある。よほど信用したヒトでないと、ボクはその店を他人に教えたりしない。変な一見を増やしたくないから。それでも、ボクが気持ち悪い常連の一部になっているかもしれないことを、忘れないようにしたい。常連が潰してしまう店も、あるのだから。