クルマのある生活をやめました
日本ではクルマが売れなくなって久しかった。クルマの機能は成熟し、不便、不都合、不満のあるモデルは少なくなった。特にベーシックなモデルの成熟は進み、人間の側がクルマに求める要求性能を、すでに十分クリアしていた。坂を登らないことはない。高速道路でスピードがでないこともない。乗り心地が悪いこともない。車室内が狭いこともない。ブレーキが弱いこともない。不格好もない。もっと良いモデルは金を出せばあろうけども、自分の使い方ならば、ベーシックなモデルで、別に、もう、これでいいか、と思える技術レベルになっていた。むしろ燃費も取り回しもよいし。さらに気づいたことがあった。モデルラインナップのなかの違い、差別化の余地は小さくなり、もはやモデル間の差はイメージのレベルでしかなかった。四駆ならオフロードや雪道で頼もしいイメージ。でも実は、それってほぼ、イメージなんだよね。自動車製造会社側の広告宣伝を真に受けた私が持った、イメージと。FFでもタイヤを選べばキチンと雪道は走る。四駆は安楽安全に走る?FFではスタックする、四駆でなければ走れない雪道やオフロードを走るの?走ることがある、にしても、その走行は必須なのか。安楽に走りたいのはなにのためか。四駆がFFに比べて安楽安全なのは、同じ速度のなかでの比較。FFでも速度を落とせば十分に安楽安全になる。速度を落とせない私のクルマの使い方、時間に余裕のなさに、まず、改善の余地はないのか。そう考えるようになりました。さらに考えました。危険なシチュエーションでクルマに「乗らない」「延期する」を選択できる生活にスイッチすればいいと。したくない、できないのはなぜだろうか、と。クルマは楽。便利。座って、ペダルとハンドル操作すれば、熱くも寒くも辛くもなく、移動できる。でも、それって。安楽で趣味性があって、移動は本能的に中毒性があって、楽しい。でも、必須ではないよな。クルマが走ることで、自然破壊と温暖化がすすむ地球に、ネガティブな影響を与えることは知っている。それと、エゴな楽しさと、天秤にかけて、選ぼうじゃん。人間は、考えられる脳と、知識がある。私達は考え、改善し続けなければならない。私は長い間そう思っている。私は、移動手段としてのクルマに乗ることをやめました。趣味としてのクルマはもちろん、生活用移動手段としてのクルマを、やめて、移動は自転車にスイッチしたのです。晴れの日に、シンプルな自転車を漕いで、10数km先のスーパーに買い物に行く。自転車は、最大買い物カート一台分、籠2個ぶんの荷物を運ぶことができる。雨、雪の日は買い物を諦め、家で本を読む。梅雨時期でも、冷凍冷蔵庫があれば、食うものに困らない。冬の晴れの日、暖かい日差しの中を、荷物満載の自転車で走りながら。いろんなことが感じられるようになった。遠くの鳥の声、焚き火の匂い、浅い川辺の水鳥たちの戯れ、大根畑の乾いた葉擦れの音、散歩犬の嬉しい尻尾、さかみちを登って息が上がる老いの片鱗。いいなあ。すごく、いいなあ。クルマを降りたら、地球環境にやさしい、は、オマケ。なんと贅沢な気分を私は手に入れたのだろう。