カテゴリ:カテゴリ未分類
今日午前中に、こんな言葉を頂きました。
「疑う事(恐れ)を知らない子供になれと言うことか?」 私はそれで何が問題あるのだろうと思います。 疑い、恐れ、否定、はエゴ(悪魔)が生み出す現状を保とうとする心の動作です。 仮に今、 子供のような純真さに戻ろうとしても、皆さん大人ですし、 生活の上では何も不安は無いと思います。 とたんに記憶喪失になり、見知らぬ人から高い壺や絵を買う訳でもなし、 慈善心が先走って、ルートを確認せずにあらゆる募金をする訳でもなし、 誰でも持ち得る客観性が失われて、公共物に落書きする無邪気な子供に 記憶ごと戻る訳でも無いと思うので。 インナーチャイルドを解放しようと言う趣旨で、 何がしかのイベントが何処かで仮にあったとしても、 それはそれとして楽しむことは出来るでしょうし、家に帰れば今までどおりの 生活をするだけだと思います。 わたしのつたない言葉がどなたかのヒントになればと思い書いております。 一般的にみっとも無いと思われるような事でも、将来的には古い観念になると思われる 「恥(プライドを保とうとするエゴの側面)は掻き捨て」と思い、 どんなことも勝手に告白してます。^^ エゴが完全に消える、その将来は少し後かもしれませんし、 命に愛を引き継ぐ積み重ねを何世代も繰り返し、何百年後かに到達される 人類一致の新しい常識かもしれません。 人類がエゴから抜け出した暁には「肉体の死」が恐れではなく、今生で到達出来る 自身の慈悲の広がりを目指すポジティブな目標地点としての認識に変容されるのでは、 と感じています。 -------------------------------------------------------------------- こんな言葉を頂きました。 「大人になってこういう事を言う人は信用出来ない」 私は霊能力者でも何でも無いですから、普段は日常的に見たり感じたりしませんけれども、 心は魂の支配下であると言う事を、身に沁みて痛感しているので、 その確信を揺らす事は出来ません。私の事は信用しなくても構いません。 他の人が大勢、自身のサイトやブログでも似たような事を告白していますし、 表現や喩えの違いこそあれ、ベースでは共通した意見をそこに見つけられると思います。 辿りが違っても段々と各々の言葉が似てくるのだと思います。 地上での生では、恐れや恥や虚栄心や疑いと言った エゴ(悪魔)に対して、自分の意思として戦うと言うよりも、 我が身(心)をエゴに重ねるか、離れて慈しみ(愛)に移るかの2通りの 選択しかないのだと思います。 今まで自尊心(エゴ)と共に保持していた「私は私で道を切り開く」と言った 突っ張りで通せる人は、それがエゴの状態か、求められている像を理解して 演じているのかは分かりませんが、それがその人の辿りの道ではと思いますし、 殆どは突っ張りが崩壊したところで信念もバラバラと崩れてゆき、 そこから受容が始まるのだと思います。 まして大人と言うのは肉体や未だこの世界の集団意識、悪い意味での 「現実の支配にある年齢」から見た尺度でしかなくて、心の世界で見れば それぞれは全く別の映像な気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.23 16:21:56
|
|