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テーマ:恋愛について(2613)
カテゴリ:思わず納得!
今日も「お気楽日記」に先だって、「ロマンス小説史」の続きを書きます。
昨日、ハーレクイン・ロマンスのストーリー展開というのは、大体こんな感じである、というところを述べました。そして一見、荒唐無稽かつ時代錯誤的なその内容が、実は「ロマンス」なるものの本質を突いている、というようなことをお話ししました。今日はそのあたりのことについて、もう少し具体的に説明していきましょう。 まず「ハーレクイン・ロマンスではすべてのストーリーがヒロインの視点から語られる」という点について考えてみます。 ハーレクイン・ロマンスを読んだことがある方ならお分かりのことと思いますが、「ヒロインの視点」というのはまさに鉄の掟であって、ハーレクイン・ロマンスにはヒーローの視点から語られたストーリーというのはありません。常にヒロインがヒーローに出会うのであって、その逆ではないんですね。といってそのことが特殊だ、というわけではなく、実はこれこそが「ロマンス小説」の伝統的な約束事の一つなんです。つまりハーレクイン・ロマンスは、そうしたロマンス小説の約束事を非常に忠実に踏襲しているということなんですね。 え? ロマンス小説なんだからそんなの当たり前じゃない? と思われるかも知れません。しかしかつて、と言っても本当にずっと昔、ということですが、かつて、西欧文学における恋愛の描き方というのは、この逆でした。つまりヒーローがヒロインに出会うのであって、恋というのは常に男の側の視点から描かれてきたんです。恋に悶々とするのは男の方であって、掴み難いのはヒロインの女心の方。ですから、読者もまたヒーローと共に、ヒロインの心が奈辺にあるのか、その仕種や行動を見て一喜一憂することになる。それが昔の恋愛物語だった。 しかも大昔の恋愛物語の場合、たいてい恋する二人の間には越えられない垣根があります。たとえば身分が違う(男の方が低い)ということもあるし、それよりもっと多いのはヒロインが既婚者だったり、婚約していたりするというパターン。ですから、昔の恋愛物語で描かれる恋というのは、元から実らぬ恋なわけ。で、その実らぬ恋のためにヒーローはさんざん悩まされた挙げ句、思い余って英雄的かつ自殺的行為に及んで死んでしまったりする。憧れの貴婦人のために命を落とす、つまり、それが騎士道なんですね。 ま、イギリスの場合、「アーサー王伝説」あたりからしてこの手の恋愛物語で満ちていますし、またその後もこの手のもの、すなわち貴族的な恋愛というか、結婚制度の枠外で営まれる不毛の愛の物語が続きます。結婚という落ち着きどころがないんですから、それは時にはフシダラな方向に行くことも多く、ほとんどポルノ的な恋愛物語というのも18世紀半ば以前には随分出版され、これが上流階級の間で楽しまれていたというようなこともあったようです。 もっともこういう騎士道風恋愛、あるいは宮廷風恋愛というものは、その後も結構長い間、「正統」な文学の間に強い影響力を保っていて、例えば18世紀末に書かれたゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774)にしても、その痕跡はありありと残っています。何しろウェルテルは婚約者のある女性を思って悶々とした挙げ句、ついには自殺しちゃうんですから。 ま、『若きウェルテルの悩み』という名作の名を挙げたついでに一つだけ言っておきますが、この作品にはそれ以前の恋愛物語にはない特色もあります。それは恋に悩む主人公・ウェルテルが作中やたらに泣く、ということです。皆さんも暇があったらこの作品の中で主人公のウェルテルが何回泣くか、数えながら読んでみて下さい。まあ、泣く、泣く。いい歳をした若者が、恋に悩んでひっきりなしに泣いてばかりいる。で、こういうのを「センチメンタル」な小説、と言うんですね。男が自分の感情を表に出しても恥ずかしくないし、そういう人間の感情は尊いものだ、という発想がここにはある。『ウェルテル』という作品が後世の文学に与えた影響力の一つは、「男も泣いていいんだ」ということを確認した、ということなんですな。 ま、それはともかく、ヒーローがヒロインに恋をし、これが悲劇的に終わる、というのが、古の恋愛物語の定石だったわけ。 で、そういうことを踏まえて、ハーレクイン・ロマンスのことを考えると、事情がまさ逆になっていることに気づくでしょう。先に述べたように、ハーレクイン・ロマンスというのは常にヒロインの視点からヒーローとの関係が描かれ、しかもハッピーエンドで終わるんですから。しかも、これは後でも述べますが、昔の恋愛物語とは逆に、ハーレクイン・ロマンスでは常にヒーローの方がヒロインより身分・財力が上という設定になっている。で、これらのことはハーレクイン・ロマンスの典型であるばかりでなく、一般に現代のロマンス小説の典型でもあります。と言うことはつまり、昔風の恋愛物語の定石が、文学史上のどこかの時点でひっくり返ったんですね。 で、イギリスにおいて、そんなロマンスの転回点の一つと見なされているのが、18世紀半ばに書かれた『パミラ』(1740)という作品なんです。これ、通常の文学史では「散文小説(ノベル)」という新たな文学形式を作り出した画期的作品と考えられてきたものなんですが、これがまさにヒロインの視点からヒーローとの関係が描かれ、しかも最終的には身分が上のヒーローと結婚してハッピーエンドで終わる一種のロマンスだった。そしてこの作品あたりを起点としながら、伝統的な「男の恋の物語」たる恋愛物語とはまた別の、「女の恋の物語」としての恋愛小説(=ロマンス)の伝統が始まるんですね。ま、言い方を変えると、イギリスにおける小説(ノベル)という文学史上の新しい形式は、「女の恋の物語」から始まったというふうにも言えるわけ。 ちなみに、こうした事情には18世紀イギリスにおけるブルジョアの台頭、および貴族の没落という、大きな社会的変革のうねりが大きく係わっています。 先にも述べたように、かつて貴族社会に力があって、その中で恋愛物語が紡がれていた時代には、「恋愛」というのはむしろ結婚制度の外側で、結婚とは別個に営まれるものだった。そこだけとると、ちょっと日本の近代小説と似ていますけど、とにかく貴族社会において恋愛というのは結婚の先にあるものであって、前にあるものではなかった。ところが、ブルジョア社会というのは平民の市民から成り立つ社会ですから、一夫一婦制のモラルを堅持する、というのが結婚生活の基本です。ブルジョア社会というのは、結婚制度の外側で恋愛なんてしていてはいけない社会なんですね。 つまり、「結婚」というものを視点にして社会の趨勢を眺めれば、イギリス18世紀半ばという時代は、結婚という制度の拘束力を無視してもあまり咎め立てされなかった貴族的世界から、結婚をもっと神聖で不可侵なものと見なす代わりに、それだけ束縛も強くなるブルジョア的(平民的)世界へと移行しつつあった時期だったというふうに言えるわけです。そして、このイギリス社会の一大転機を文学の上で象徴するのが、先に挙げた『パミラ』という恋愛小説だったんですね。言い換えれば、ブルジョアの台頭と共に「結婚」という制度が神聖なものとなり、生涯を通じて夫と妻を束縛するものとなった時、すなわち「結婚」が人生の一つの「ゴール」となった時、それ以前の男の恋の物語たる「恋愛物語」は、結婚を目指すヒロインを主人公にした女の恋の物語たる「恋愛小説」へと変わっていった、というわけです。 ですから、恋の物語をヒーローの目から描写するか、それともヒロインの目から描写するかという問題は、これで結構、大きな問題を孕んでいるんです。 この話、もう少し続けます。また次回をお楽しみに! 「お気楽日記」の方はまた夜に更新しますね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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