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テーマ:今日のこと★☆(104861)
カテゴリ:思わず納得!
今日のこと、というよりは昨日のことなんですが、うちの大学で学術講演会なるものが開かれました。講師は関西の方にある某有名大学大学院のアメリカ文学の先生、内容は1920年代の「アメリカ文学と自動車の関係について」、です。 ご存じの通り、自動車というのは19世紀末にフランスで誕生したわけですが、その普及に関してはアメリカが世界に一歩先んじたところがある。何しろ1920年代末にはアメリカ人の5人に1人は自動車を持っていた、つまりおよそ一家に一台は自動車があったというのですから、これはすごい保有率です。日本でこのくらいの保有率に到達するのは、それこそその4~50年後くらいではないでしょうか。 で、そのアメリカにおける自動車の普及に大きな役割を果たしたのが、フォード社の傑作「T型」であることはよく知られた事実でしょう。「ベルトコンベアーを使った流れ作業」という画期的な生産方式を用い、一台あたりにかかる生産コストを抑えて作られたこの自動車は、「大衆車」という概念を生み出すと同時に、世界中のあらゆるモノの生産方式に計り知れないほどの影響を与えてきた。 しかし、昨日の講師の先生によれば、実はこのフォード社の画期的な「流れ作業」による生産方式が誕生するまでには、2段階のプロセスがあったというのですね。 つまり1913年に最初のベルトコンベアーが稼働した時には、車ではなく、部品の方がベルトに載って運ばれてきたというのです。ですから工員は、たとえばまずベルトに載って運ばれてきた椅子を目の前の車に取り付ける。で、その作業が終わると、今度はヘッドライトがベルトに載って運ばれてくるので、ヘッドライトを取り付ける。すると今度はクラクションがベルトに載って運ばれてくるので、クラクションを取り付ける・・・、とまあ、そんな感じで作業していたんだそうです。これでも従来の方式から比べると格段の作業効率で、一台の車を作るのに13時間で済むようになった。 ところが、そんなことをしているうちに、工員の一人が「この方式ではどうも具合が悪い」ということを言い出した、というのですな。 彼曰く、どうもこれは逆ではないかと。つまり、部品をベルトコンベアーで運ぶのではなく、作りかけの車の方をベルトコンベアーに載せて動かした方がいいのではないかと。 そうだ! その通りだ! というわけで、翌1914年から、部品ではなく作りかけの車の方をベルトに載せて動かし、ある場所では椅子を取り付ける専門、ある場所ではライトを取り付ける専門、またある場所ではクラクションを取り付ける専門・・・、というふうに流れ作業の手順を変えてみた。すると、なんと、一台の車を作るのにわずか90分しかかからなくなったというのです。で、この2番目の方式こそが、現在も世界中で行なわれている大量生産方式のモデルとなったことは言うまでもありません。 なーるほどねー! ベルトコンベアー方式を思いついたこと自体も凄いですけど、それをもう一歩進めて、部品ではなく、生産品たる車の方をベルトに載せることを思いついたのはもっと凄い。しかも、その逆転の発想をしたのが現場の一工員だったというのも面白いですなー。どんな組織でも、上の連中は現場の人の声を聞かないといけない、ってことですね。 というわけで、昨日の講演会、この「流れ作業の誕生」という点については大いに勉強させていただいて面白かった。んですけど、しかし、全体としてみると、いま一つだったかなー・・・。 だって講演のスタイルそのものが古いんですもん。60歳くらいかなとお見受けした講師の方は、20年くらい前の一流大学の文学部・英文科の学生に向かって語るような調子で話をされるのですけど、今どきの学生には、もうそんな調子では通じないですって。今どきの学生には、そういう話が通じるような基礎的な知識はないんですもん。第一、今、「文学部」とか「英文科」というもの自体、ほとんど死語になっているんですから! 文部科学省のわけの分からん方針で、今、日本中の大学から「文学部」が消滅しています。その代わりに次々と生まれるのは「国際関係学部」であったり、「言語文化学部」であったり、また「人間環境学部」であったりするわけ。しかもそこで教育されるのは「文学」ではなく、「語学」なんです。文部科学省は「文学」なる学問を「役に立たない学問」として目の敵にしていますから、今、日本の大学には「文学」を教える場所がどんどん少なくなっている。しかも今どきの学生は卒業要件に必要な勉強以上のことをしようとしませんから、日本のものであろうと、外国のものであろうと、文学作品を読んだことのある学生なんていやしない。 だからこそ、私を含め、日本中で「文学」を研究している大学人達は日々、苦労しているわけです。自分たちの学問領域で得た知識や知恵を、いかに文学離れした学生たちに伝えるかということを、無い知恵絞って必死で考えなければならない。その結果、文学を映画のような映像芸術とからめて論じてみたり、もっと広く文化論の側面から文学を捉え直したり、色々なトライをしている。皆、苦労しています。 で、昨日の講師の先生も一応、「自動車」という文化的側面から文学にアプローチするようなスタイルをとっているわけですが、しかし、その実、文学史上有名な作品だから、講演で取り上げたようなアメリカ文学の名作を学生は一応読んでいるはずだし、興味もあるはずだ、という前提に立ったようなお話ぶりは、もう完全に20年前の英文科そのもの。さらに「自動車」という1920年代の流行品が、個々の文学作品の中で如何なる象徴性を帯びているかというような論は、これまた1980年代前半で片がついてしまった文学の論じ方です。 うーん、こういう文学の論じ方が、その講師の方の勤務先である有名大学の大学院では通用するんですかねぇ? だとしたら、楽なもんだなー! ま、文部科学省って、伝統ある有名国立大学に対しては卑屈なまでに及び腰だから、講師の方のお勤めの大学みたいなところでは、昔通り好き勝手に、大手を振って「文学」を教えられるのかも知れません。羨ましいようなもんだ。 ということで昨日の午後は、一流大学の偉ーい先生の学術講演会を拝聴しながら、色々と複雑な思いを噛みしめていたワタクシなのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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