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カテゴリ:思わず納得!
このところ父の「芸術談義」がうるさくて仕方がありません! 最近デジカメに凝っている父。花の写真を撮ってはせっせと自分で絵葉書に加工し、友人・知人に送りつけておりまして。要するにレスポンスが欲しいんですな。レスポンスというより、「素晴らしい!」という賞賛の言葉が欲しいのでしょうが。私に似て、父も褒められたい人なもので。(というか、私が父に似たのか・・・) ところが運の悪いことに、親戚に写真の腕前がセミプロ級というのがいまして、この人が、(止せばいいのに)父の「作品」を評して「芸術作品とは言えないけれど、なかなかよく撮れている」みたいなことを言って寄こしたらしいんです。 で、父はこれにカチンと来た、と。 そりゃ、父としては自分の写真は紛れもないアートだと思っておりますから、それを「アートとは言えないが・・・」などと言われたら腹も立つでしょう。で、ここ数日、不毛な芸術論を罪のない我ら家のものに吹っかけてくるわけ。つまり、「『芸術写真』と『そうでない写真』の区別はどこにあるのだ」と。もう、うるさい、うるさい・・・。 ま、私も「文学」なんぞを研究する身、「父上、それはですね・・・」と即答したいところですが、なかなかそうも行かない。だって、芸術と芸術以外、文学と文学以外のものの線引きなんて、あんまり興味ないんですもの。そんなの、人それぞれでいいんちゃうのん? 自分で「これはアートだ!」と思えば、すなわちそれがアートなのでありまして。 それに、何となく「感じ」で分かりますよね? たとえば私は最近、ジェフリー・ディーヴァーのサスペンスにはまってやたらに読んでいますが、これとて、ディーヴァーの作品を、例えばフォークナーの作品と同列の「文学作品」として評価しているという意味ではありません。そこはやっぱり区別しているのでありまして、ただ、どこがどう違うとはうまく言えないだけ。感じ、ですよ、感じ。フィーリング。 しかし、そういう回答では父は納得しそうにありません。「そうかなあ・・・。」と言った5分後には、「僕の写真はアートではないと言われたけど、アートって一体なんだ?」と言い出すに決まっています。 そこで私も父が納得するような答え方を考えてみた、と。特に「写真」について、ね。「アートな写真」と、「ただきれいに写った写真」の違いは何ぞや? で、思いついたのが、「アートな写真とは、『アート』すなわち『人の手』が加わっていることが明確に見てとれる写真である」という定義なんですけど、どう? 父の写真は、被写体を鮮明に、構図よく撮るということを念頭に置いたものです。ですから一応、バランスよくきれいには撮れている。しかし、そこから撮り手の意図はあまり伝わって来ないんですね。「こういう風にきれいに見えた」と言っているだけで、「こういう風に見せてやる」という意思が感じられない。 結局、そこじゃない? 「アートな写真」とは、端的に言えば「人工的な写真」、つまり自然を自分の意思に従って捻じ曲げて写す写真のことなのでは? たとえば、通常「汚いもの」と思われているものを写真に撮って、「ここに美を見ろ!」と押しつけるのもアートな写真と言えるでしょうし、カメラの機能を使って、あるいはコンピュータ処理して、人間の目に映るのとは異なる映像を見せた写真もアートな写真と言えそうです。わざと逆光で撮ることだって、アートな写真を作る手段かも知れません。とにかく、自然を撮り手の意思で捻じ曲げた写真がアートなんだ、と言えば、当たらずといえども遠からず、って感じがしません? 父がそういう写真を撮りたいかどうかは別として。 自分ではしてきました。 ということで、今度父が「ところで、この間、僕の写真はアートではないと言われたんだけど・・・」と言い出したら、そう言ってやろうと思います。これで釈迦楽家のにわかアート談義も終結! ・・・いや。いやいやいや。一つ忘れていました。父の気質の一つは、「家族のものの言は受け入れない」なのでした。私がいかに真っ当な「正解」を言おうと、それは父の耳には馬耳東風。誰か、世間的にエラーイ人が言ってくれないと、父は決して信用しないのであります。 ということで、この先当分、「ところで、この間、僕の写真はアートではないと言われたんだけど、アートな写真って何だ?」の問いかけを聞かされる羽目になりそうな釈迦楽家の面々なのでありました、とさ。どなたでもいいですけど、世のエラーイお方、父を説得してくださーい! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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