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カテゴリ:教授の追悼記
1999年にハーマン・メルヴィルの『クラレル』の翻訳作業に一区切りつけられたS先生が、翻訳に関して次の目標とされたのは、同じメルヴィルの『白鯨』の改訳でした。 メルヴィルの代表作であるばかりでなく、世界文学の最高峰とも目されるこの作品、日本で最初に翻訳を手掛けたのは阿部知二氏でした。そしてこの阿部知二訳はその後、岩波文庫に入ることになる。1956年のことです。 で、これが岩波文庫に入るに当たって、阿部知二氏は後藤光康・明大助教授に改訳の手伝いを依頼するんですな。これは阿部知二氏自身が明治大学の教授だったためで、要するに彼は若い同僚に、旧訳の誤訳チェックをしてもらったと。 この時、後藤氏はさらにその手伝いを、当時、明大の院生だったS先生にさせたわけ。ですからS先生は、まだ研究者としての本格的なキャリアを始める前に、阿部知二訳『白鯨』の誤訳チェックを手伝っていたということになります。 ところがその後、20年ほどして再び阿部知二訳『白鯨』を原文と照らし合わせながら読んだ時、かつてご自身も頼まれて担当した誤訳チェックが完全なものではなかったことに、S先生は気づかれます。これまで書いてきた先生のご気質に照らし合わせてみれば、このことが先生にとって痛恨事であったであろうことは容易に想像できるでしょう。その時から先生は、いつかもう一度阿部知二訳の誤訳部分を訂正したいというお気持ちを抱かれていた。 ですから『クラレル』の翻訳が完了した時、先生のお気持ちが『白鯨』に向かわれたのも、ごく自然なことでした。 それに加えて、既に書いたように、S先生の卒業論文の主題が『白鯨』だった、ということもあるでしょう。ひょっとすると研究者としての晩年を迎えられた先生は、懐かしい旧友の白いクジラに「お礼参り」のひとつもしようと思われたのかもしれません。また先生は常々、阿部知二訳『白鯨』を非常に優れた訳業とお考えでしたから、かつてご自分も教えを受けた「文人教授」である阿部知二氏への、最後のご恩返しのおつもりだったかも知れない。S先生は、阿部知二氏のことを、いつも「阿部先生」と、「先生」という敬称をつけて言及されていましたから。 かくして先生は発行元の岩波書店に申し入れることもなく、とりあえず岩波文庫版『白鯨』の上巻について誤訳チェックをし、改訳の訳稿を作られた。300頁に上る上巻で、細かい修正を含めればS先生の朱が入らなかったページはほとんどなかったと言いますから、今度こそ阿部知二訳『白鯨』から誤訳という誤訳を徹底的に根こそぎにしようとされたS先生の気合の凄さが感じられます。 ところで、この阿部知二訳改訳作業に取り掛かられた2000年の時点で、阿部訳も含め、日本には10種類の『白鯨』訳がありました。1952年の田中西二郎訳、1956年の阿部知二訳、1956年の富田彬訳、1959年の宮西豊逸訳、1973年の坂下昇訳、1973年の高村勝治訳、1980年の磯野宏訳、1994年の野崎孝訳、1994年の原光訳、2000年の千石英世訳です。さすがにあの『白鯨』にチャレンジされる方々だけあって、ここに挙げた翻訳者の方々は錚々たるメンバーであると言っていいでしょう。そしてS先生は、阿部訳改訳に取り組まれる中で、これら既存の訳を参考にされた。 「参考にされた」というのは、つまり阿部訳が間違っている箇所について、他の9種類の訳がどうなっているかを見ていかれたわけですが、そこで先生は非常に面白い発見をされるんです。 例えば阿部訳(仮にA訳としましょう)よりも新しい訳であるB訳を見ると、A訳のとある誤訳部分がちゃんと直っている。ところがB訳よりもさらに新しいC訳を見ると、当該部分がまた誤訳されていたりする、というのです。で、それよりさらに新しいD訳を見ると、またその部分が修正されているのに、それよりさらに新しいE訳を見ると、またそこが誤訳されていたりする。 つまり、訳が新しくなれば、旧訳にあった誤訳が修正されるはずで、訳が新しくなればなるほどより良い訳になるはず・・・というのは、まったくの幻想だ、ということが分かった、というのですな。新訳が出たからといって、それ以前のすべての旧訳よりも誤訳が少ないとは限らないんです。 何故こういうことが起こるかと言えば、「我こそは!」と『白鯨』の翻訳に名乗り出る人たちのほとんどが、それ以前の旧訳を完全には参照しないからです。で、それらの人たちは、いわば自信満々にそれぞれ独自に訳稿を作るので、それ以前の誤訳が修正されることもあれば、同じ過ちを犯してしまうこともあり、時にはさらに新たな誤訳を生み出してしまったりもする。それで、いつまで経っても『白鯨』の邦訳から誤訳が減らないと。 それではいけない、とS先生は考えられた。だからこそ先生は、新たに「S先生訳」というものを作り出すよりも、阿部知二訳をベースとし、それを修正する形で『白鯨』の完全版を作ろうとされたんです。それこそが、誤訳を可能な限り追放する最良の方法であると信じつつ。そしてそれを、誰に頼まれたわけでもなく、ひたすら無言で実行された。 私はこういう話をS先生から伺う度に、S先生は「溶岩」のような人だ、という思いを抱きます。 先ほども言いましたように、阿部知二訳以降に日本で『白鯨』の邦訳を手掛けられた翻訳者の方々は錚々たる先生ばかりで、その文名というか、お名前は世間に、あるいは学会に、広く知られている。ある意味では、S先生よりよほど名前が通っていると言ってもいい。 しかし、S先生がまるで溶岩のようにゆっくりと攻めて行って、これら諸先生方の誤訳を一つ一つ究明され、「この部分に関して、この人の訳は正しいが、この人のは間違い。この部分に関しては、全員間違い」などと逐一明らかにされるのを見ると、結局、最後に勝つのはS先生なんだと思えてくる。いえ、もちろん「勝ち負け」がどうのと言っているわけではありません。ただS先生のように地に足のついたやり方でゆっくりと、しかし着実に、執念をもって真実を究明しようとする方だけが、本当に最後のゴールに行きつくのだということ、そしてそういうことができる人というのは、本当にこの世に少ないのだ、ということを、私はS先生を見ていて痛烈に思うのです。 『クラレル』の翻訳の時も、同じことを思いました。S先生はこの作品を翻訳された後、「ハーマン・メルヴィル『クラレル』翻訳余禄」という文章を発表されているのですが(『月水金』第23号203-223頁)、この中でS先生は、「つまり、私のすることは、ひとの揚げ足をとることであって、私は大いに気が進んでこれをするのではない」と断りながらも、『クラレル』という作品に対してそれまでに書かれてきた研究書・解説書の類の明らかな誤り・誤謬をすべて列挙されている。そしてこれを見ると、洋の東西を問わず、いかに従来の研究がいい加減な読みの上になされてきたかがよく分かります。で、そういういい加減なところを、S先生の「溶岩」は、ことごとく、ぷすぷすと焼き尽くしてしまわれる。 おそらくS先生からすれば、どうして他の人たちはやるべきことをちゃんとしないのか、どうしてちゃちゃっと読んで、ちゃちゃっと気の利いたことを書いて、それで済ませてしまうのか、純粋に不思議だったのだろうと思います。 とにかく、S先生はこういう形で『白鯨』の改訳に邁進された。この作業に取り組まれていた頃の先生とお話しした感触から言えば、先生が相当に強い思いでこの企図に取り組まれていたことは明らかでした。 ところが、非常に残念なことに、S先生の『白鯨』完全版を作りたいという思いは、岩波書店には届かなかった。 これには岩波書店の側にも無理からぬ事情があって、S先生が同社に無断で岩波文庫版阿部知二訳『白鯨』改訳作業を行っていた頃、岩波書店は、八木敏雄氏に『白鯨』の新訳を依頼していたのです。そしてこの八木敏雄訳岩波文庫版『白鯨』は、2004年に発売となりました。何しろ、阿部訳は1956年刊で、もう半世紀近くも昔の訳ですから、そろそろ新訳を、と岩波書店が考えたのも当然ですし、またこのところの「新訳ブーム」を鑑みても、岩波書店がこのタイミングで完全新訳を企画したのも、時代の流れというものだったかもしれません。 それに八木敏雄氏はポーやメルヴィルの研究者としてつとに名高い方ですから、八木訳『白鯨』も、おそらくは信頼に足る訳になっているのでしょう。私はそれを自分で読んだことがないので、そう思うしかないわけですが。 しかし、私としては、これまで述べてきたような経緯からして、もし阿部知二訳『白鯨』のS先生改訳版が出ていたら・・・という思いを抱かざるを得ません。 というわけで、S先生の『白鯨』改訳の志は、相手方のやむを得ぬ事情により、珍しく中途で挫折することになってしまいました。そしてそれ以降、S先生は、『白鯨』改訳とほぼ同時進行で進められていたもう一つのお仕事にすべての力を注がれることになります。それは先生の著作物としては最後のものとなる『墨染めに咲け』の執筆でした。このお仕事は、しかしながら、先生の生涯を、先生ご自身が、溶岩のように焼き尽くす作業だったのです。(この項、続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 7, 2011 01:25:42 PM
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