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カテゴリ:教授の追悼記
日記と往復書簡で綴られるさちさんの闘病記録も、いよいよ最終章を迎えようとしています。 往復書簡が成立する最後のものをご紹介しましょう。まずはS先生からさちさん宛の手紙。1963年12月9日付けのもの: 隆志は、今朝、新聞の広告に出ていた自動車の絵を、例によって鋏で切りぬいた。そして、それをーー十台ぐらいあるのをーー全部、ベッドのヘッドボードに糊で貼った。「ママが帰ってきてよろこぶから」と言う。いつでも隆志はママのことを考えている。「ママは今年中には帰ってこられないんだって?」とも言う。 昨日は、(日曜日)夕方、隆志と西武デパートに行って、黒い長靴を買ってきた。クリスマスのダンスに使うためだ。あなたが、隆志のクリスマスを二度とも見られないことを、どんなに残念がっているだろうかと私は思う。病院からかついできても、見せてあげたいくらいだ。 このあいだのあなたの手紙に書いてあったように、病気をはねかえす、そんな気持ちになってほしい。 夫婦というものは実に妙なものだ。これには一親等とか二親等とかいう順位が法律にもない。要するに一親等を超越したものだ。以心伝心という言葉もなまぬるい。 あなたが少しでもげ元気がなくなると、私も元気がなくなる。私が元気がなさそうな顔をしていると、あなたも病気に負けたような気になるのかもしれない。あなたがつらいことはよくわかる。でも、あなたがそのつらさに負けそうな様子を見ると、私もさびしさに負けそうになる。お互いに、どうしても、がんばろう。がんばるんだ。どんなことがあっても。 一年半のあなたの苦しみ、そして、それに比べれば大したことはないかもしれないが、とにかく私の悲しみ。これは私たちの人生にとって、非常に貴重なものになるだろう。私はこの一年半のあいだに、だんだん深くあなたの愛をかみしめるようになった。人間そのものはちっぽけな存在だ。だから、人間同志の愛情、あなたと私との愛、それもちっぽけなものかもしれない。だが、それは星の光のように、美しいものでもありうる。 庭じゅうにいろいろな花を植えて、あなたが帰ってくるのを待っている。春になったら、たくさん花が咲くだろう。撩乱の百花が拍手喝采してあなたを迎えるだろう。 うんと苦しみ、うんと悲しみ、そして、その苦しみと悲しみとを乗り越えなければならない。 ではまた。十二月九日 愛するさち子へ。 サム (『墨染めに咲け』323-324頁) これに対するさちさんの手紙、これはさちさんが生前に書き得た最後の手紙となりますが、これも併せて記しておきます: 最愛の人、サムへ おてがみをありがとう あなたの悲しみ、淋しさがよくわかります。だけど がんばりましょう。ふたりで、お互いのために、 そして、ふたりのたかしのために。たかしの すこやかな成長とあなたの健康をただただ 祈ります。これからますますあなたは 私が病気であるために、いろいろと不便を 感じられ、お忙しくもなられるでしょうが あなたも元気を出して。ケチョンとしちゃだめ。 そう言いながら私自身涙にくれてばかり いるけれど、私もがんばるわ 退院の日を 目ざして。早く自動車の切りぬきが貼って あるベッドに寝たい。私をとりまく壁の中に あなたの助けをはげましを求めて、さち My dear, dear Sam (同324-325頁) さちさんが闘病生活をしていた1年7ヶ月の詳細な記録。その中には、かすかな希望と、その希望を打ち砕く多くの悲しみがあり、また母親から引き離された幼い隆志さんの、幼いなりの悲しみと怒りがあり、それをなだめつつ、自分自身もくじけそうになる先生ご自身の姿がある。しかし、それらすべては終わりに近づいています。1964年3月4日、この最後の一日は、それこそ分刻みの記録です: (前略)一年七か月の戦い。私の耳には、さち子の泣いた声、呻いた声、そして、途中で退院をゆるされたときの、つつましい歓びの声が、一つの、消えることのない歌の調べとなって、遠くに響いている。よく戦った。痩せ衰えた体で、よく耐え忍んだ。戦いは、長い嵐のように過ぎ去った。 朝からもう十時間、静かに静かに生きている。生きている。私は、このような生は意味がない、とさっきまで思っていた。しかし今は、そうは思わない。あのような激しい、長い苦しみのあとで、たとえ無意識でもいい。このような静かな生き方があってよい。なくてはならない。長ければ長いほどよい。もう手足を動かしたり寝返りを打ったりする必要もない。背中も痛くない。のども痛くない。鼻の穴も痛くない。鎮痛剤の必要もない。注射のあとも痛くない。水を欲しがらなくてよい。戦いに敗れたあとの平和な、平穏な生だ。 はげしい呼吸にのどをならさなくてよい。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、この静かな生を楽しんでくれ。楽しもうとする欲望ーーそれもなくてよい。 君の魂は、もう天上の国に着こうとしているころかもしれない。窓のそとの小雨はやんだ。四時二十分、夕暮れが近づいてくる。しかし、今、君のいるところには、光が満ちているだろう。かつて君が記憶によって私に書き送ったトマス・ムーアの詩にうたわれた光だ。「去りし日の 明るき光 わが枕べに」 君の愛していたサムは今も君のかたわらにいる。 君が信頼していた父上は、椅子の背にもたれて、君と同じようにかすかな寝息をたてておられる。「今度の、最後に襲ってきたものは、やはりわからない。おそらく癌だろう」と言っておられる。八十歳の老将軍も戦いに疲れられた。 君が敬愛していた兄上は医師の国家試験の勉強をしている。 君が病院から愛情のこもった数々の手紙を書いた妹君もここにいる。 君が数か月間ほんとうに世話になった佐々木さんは今も君のそばにかしずいている。 君の病の悪いあいだだけ付添ってくれたシンちゃんという佐々木さんの友だちもそばにいる。いくぶんおしゃべりだったが、君はもうそのことを気にきないだろう。 今、君が静かに呼吸しているあいだに、君はいっそうやさしく、いっそう清らかになってきている。 君の唇は白く透とおるようだ。激烈な試練を通して、君は浄化されたのだ。君の呼吸はいよいよ静かになってきた。隆志は君が望んでいたように、「元気で、心のやさしい人」になるだろう。 部屋のなかが暗くなってきた。四時四十五分、呼吸15、脈拍55。 (同379-381) さちさんが亡くなったのは、この20分後でした。 昭和47年というと、1972年ですからさちさんが亡くなってから8年の歳月が過ぎた頃、S先生は「春の日に」と題された一篇の短い文章を同人誌『月水金』(第七号)に発表されました。この文章ーー小説と言ってもいいのでしょうかーーの冒頭は、春の到来を言祝ぐ文章で始まります: 木の葉、草の葉、花の色が一夜のうちに変わる。こごめざくらは昨日が満開で、庭のその部分に春の日差しを吸いこんでやわらかにふくらんだように明るく浮かびあがっていたが、今朝見ると、もう桜色があわくなり、花の散ったあとに透きとおるような小さな葉がうすみどりの芽を出している。昨日まではそのこごめざくらの枝にかくれて姿を見せなかったやしおつづじが今日はつつましく、鮮やかな紫の花をひらきはじめた。地面からすっとのびあがった枝の先に咲く花は楚々として美しい。 この後、しばらく同じような春の庭の美しい風景の描写が続きます。しかし、最後の数行に至って、このやさしい風景は一変し、荒涼たる心象風景が、春のぬくもりを一瞬にして吹き飛ばしてしまうことになる: 私の視覚がこのよみがえりつつあるさまざまなものを見ているとき、私の心はそれとは全く相容れない世界を見つめている。 そこには一人の女が端然と空間に座っている。「あの人は死んだ」と女は声にならない声で、静かに、はげしくつぶやいている。「いいえ、あの人は九年前のあの日から死んでいた。私は死人といっしょに生きてきた。私は死人といっしょに三千日も生きてきた。」黒い喪服が女の白い顔をいっそう白くきわだたせている。そこでは何物も微動さえしない。よみがえるものはーーいっさいない。 (同404-405頁) ここに言及された「三千日」とは、十年に満たなかったS先生とさちさんの結婚生活を指すものと思われます。しかし、そうだとすると、いったい、この文章は何を言わんとしているのか。 さちさんが亡くなってからの先生は、確かに、「まだ生きている死人」だったのでしょう。そして、死人であるのに、さちさんが亡くなってから二年の後に、二番目の奥様、名保子さんと結婚され、お二人の間にお嬢さんもお生まれになった。そして、そのことに対する自責の念が、先生を悩ませていた。 が、そのことが先生の中でさらに拡大し、ついに、さちさんと暮らしていた時期も、既に自分は死人だったのだ、それゆえにさちさんを幸福にしておくことができず、ついにさちさんは亡くなったのだ、さちさんを殺したのは、自分だ、というところまで、すなわち、ご自身を完全否定されるところまで、行ってしまわれたのか・・・。 私には、よくわかりません。わかりませんが、先生がそう考えられたのだとしたら、それはいかにも先生らしいと思います。先に私は、息子さんを殺したのは自分だ、ということをはっきり言い切ることが、先生が『墨染めに咲け』を書かれた一つの理由であろうと言いましたが、もう一つの理由があるとすれば、おそらくこれだろうと。つまり、最初の奥様の死の責任を、同じくご自身で引き受けることが、『墨染めに咲け』を書かれたもう一つの理由だろうと。 先生は、こういう形で、ご自身に「罪人」のレッテルを貼ったのだろうと。 もし仮に、隆志さんがああいう形で亡くなっていなかったら、あるいは先生のご自身に対する断罪も、もう少し軽くなったかもしれません。しかし、そのチャンスは永遠に失われてしまった。それゆえ先生は、思う存分、ご自身を罰することができた。『墨染めに咲け』は、先生がご自身に対して下した最も過酷な判決書のようなものだったのです。(この項、続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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