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カテゴリ:教授の読書日記
アレクシス・カレルが書いた『人間 この未知なるもの』を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。
この本、渡部昇一訳でありまして、「四十年来座右の書」と明言している通り、渡部さんが人生で最も影響を受けた本の一つと言ってはばからないもの。1935年に出版されてから数年のうちに18カ国語に翻訳され、数百万部が売れたといいますから、渡部さんのみならず、この本の影響を受けた人は多いのでしょう。 しかし、実際に読んでみると、なかなか評価の難しい本ではありますね・・・。 ちなみに著者のアレクシス・カレルは1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した医者で、野口英世なんかと一緒にアメリカのロックフェラー研究所に居た人。一応は・・・というのも変ですけど、科学者であります。だからこの本は、科学者が書いた人間論ということになる。人間論っていうか、現代文明批判。 で、まさにこの本の問題点がそこにある。科学者が書いた人間論・現代文明批判ってのは、危ないところがあるからね。 つまり、「サイエンス面で頭のいい人の言うことは、とりあえず正しいに違いない」という受け取り方が、一般ピーポーの間にあるでしょ。日本でも「ノーベル賞受賞者に聞く」的な催しがやたらにある。ノーベル賞受賞者が正しいのは、それぞれの専門分野に限られるのであって、彼らの正しさはそれ以外のすべての方面にまで保証されているわけじゃないのに、一般には「彼らの言うことはすべて正しい」という風に受け取られるところがある。科学に対するコンプレックスの裏返しの全面信頼というか。そこがね、危ない、危ない。 さて、その危ない人間論・現代文明批判の書である本書ですが、不肖・私の見るところ、この本の大黒柱となっているのは第六章「適応の構造」ですな。これは医学系研究者の面目躍如というべき章で、ここで人間の身体がいかに外界の変化に素早く適応するかが詳述される。例えば怪我で失血すれば、人間の身体はこの新しい環境に適応し、まずフィブリノーゲンが傷口に集まって来て傷をふさぎ、同時に失われた赤血球を作るべく骨髄が急に活動を活発化させ、たちまちのうちに元の状態に戻してしまう。同様に我々人間は、寒い環境であれば寒い環境に、暑い環境であれば暑い環境にすぐに適応する。その適応力のすごさは科学者として目を瞠るばかりであると。 そして、人間は社会的にも、驚くほどの適応を見せる。人間というのは、驚くばかりの適応の生物なわけですな。 さて。ここまではいいじゃん? だけど、これを柱にして、カレルの現代文明批判が噴出し始める。 人間ってのは、これほど驚くべき適応の生物だけに、現代文明にも適応してしまった・・・だから、人間は堕落したんだと。 例えば「学校」というシステムはどうよ。昔は子供の教育は親がしたものだけど、親の教育を学校というシステムが肩代わりするようになった。それによって天才も鈍才もひとしなみに教室に押し込められ、一斉授業がなされるわけだけど、そうなると教育のレベルはどうしたって鈍才の方に合わせざるを得なくなる。で、そういうレベルの低い環境に、人間は適応してしまうので、結局、みんながみんな、鈍才になってしまうと。 同じように、民主主義の錦の御旗の下、レベルの低い民衆に合わせて社会が作られ、それにみんな適応しちゃうので、現代文明はアホばっかり生み出すようになっちゃったと。 それに医学の発達によって、本来なら滅びるべき出来損ないの人間も、生存が許されるようになっちゃったので、どちらを向いても出来損ないばかりの世の中になっちゃった。しかもそういう連中の子孫ってのは犯罪傾向も強いので、刑務所が栄えるばかりだと。 これ、私が勝手にカレルの言い分を悪く受け取っているわけじゃなくて、本当にカレルがそう言っているのよ。 「すでに述べたように、自然淘汰を抑制した結果、組織や精神に欠陥のある子供たちも生き延びるようになった。こういう者が生きていて子を生むことにより、民族は弱体化している」(308ページ)とかね。 あるいは、 「民主主義の教義は、人間の肉体と精神の質を考慮に入れていない。それは個人という具体的事実にあてはまらない。事実、一般的な人間は平等である。しかし、各個人はそうではない。各人の権利は平等である、というのは幻想である。精神薄弱者と天才が、法の前に平等であるべきではないのだ。愚かな者、知性のない者、注意散漫で集中したり努力したりできない者は、高等教育を受ける権利はない。こういう人たちに、十分に発達している人々と同じく選挙権を与えるのは不合理である」(312ページ) とか。 はあ~・・・。凄いことを言うよね、この人・・・。 あとね、男女平等なんて考え方も現代文明の愚かな幻想だと、カレル大先生は獅子吼しております。女性には「子育て」という立派な仕事があるんだから、男まさりに社会に出ようなどと考えるなど愚の骨頂、と言ってますからね。 そうそう、それから犯罪者と精神異常者はとりあえず殺すのがいい、と言っています。引用すると・・・ 「犯罪と精神異常は、人間に関する一層深い知識、優生学、教育と社会環境の改変によってのみ防止することができるのである。(中略)殺人を犯した者、自動拳銃や機関銃で武装して強盗を働いた者、子どもを誘拐した者、貧しい人からその貯えを奪った者、重大な事柄で大衆を誤った方向へ導いた者などは、人道的かつ経済的に、適当な毒ガスの設備をそなえた小さな安楽死用の機関で書痴すべきである。犯罪行為で有罪になった精神異常者にも、同様の処置を施せばよいであろう」(361ページ) ひょえ~!! 怖え~! カレル先生、怖え~!! 「人道的かつ経済的に、適当な毒ガスの設備をそなえた機関」って・・・。これ、アウシュヴィッツじゃん。 それもそうなんだけど、結局、科学者アレクシス・カレルの思想ってのは、基本、ナチス的な優生学なわけよ(「優生学は、強い者を永続させるために絶対に必要である」(341ページ))。本来なら自然淘汰されるべき人は、生きているだけ迷惑だし、そういう人たちの生存を保証することに起因する様々な苦労とそれが引き起こす悲しみを考えたら、いっそ死んでもらった方がメリットが多い、「科学的」に考えたら、必然的にそういう結論になるだろうと。そういう思想なわけね。 ちなみに、カレルは、人間社会を改変するためには、優れた少数者を育て、その少数者がリードするのが一番効率がいい、と考えているようで、そういう超人を育てられるかに、人類の未来はかかっている、と言っております。 ・・・「ノーベル賞受賞者に聞く」って企画、やめた方がよくない? もちろん、「カレルみたいな考え方をする奴は全員死ね!」って言ったら、それはそれで危ない話で、カレル先生が「科学的に考えたら、こういう結論になる」というのであれば、「科学的に考えたらそうなるかも知れないけど、そういう考え方を私は支持しない」と答えることはあり得るかなと。ま、私もそういう答え方をせざるを得ないわけですが・・・。 一方、カレルの言うことを、割と鵜呑みにしたのが訳者の渡部昇一氏でありまして、渡部氏はカレルの説を真に受け、「自発的断種」ということを言い出した。作家の大西巨人氏の子息が二人共遺伝性の血友病で、その治療費に膨大なお金が掛かっていることを知った渡部氏は、長男が血友病であることが判明した時点で、なぜもう一人子供をもうけたのか、と大西氏を批判したんですな。これが有名な「『神聖な義務』論争」という奴。渡部氏はこの一件で世間から猛烈な批判を浴びるのですけれども、何しろカレルの後ろ盾があるものだから、「自分は一つも間違ったことを言っていないのだから、絶対に謝らない」と頑張った。その辺の事情については、先日読んだ渡部氏の『青春の読書』にも書いてありましたけれども。 ま、この件に関しては、私は渡部昇一氏の味方をしようとは思わないけどね・・・。 しかし、では私はカレル氏の言説の全てを受け入れがたいと考えているかというと、それはそうでもない。カレルが出す結論はどうかと思うけれども、その結論を出すまでの前提には、割と首肯できるものが少なくないです。 例えば、カレルは「従来の科学の方法は、事象を細かく区分けして、その区分けした一つ一つの分析に比重を置きすぎているけれども、それだけではダメなので、総合することが重要である、ただし、科学的方法として、細かい分析の方がやりやすいこともあって、総合するということをまだ人間は上手にできていない」という趣旨のことを言うのですけれども、それは確かにそうかなと。 同様に、カレルは「抽象概念としての『人間』を考えていたってダメなので、実際に存在する「個人」ベースで考えないといけない」というのですけど、それも納得。 例えば、医者はある特定の病気を治そうとするけれども、抽象的な「病気」なんてものはそもそも存在しないんだと。存在するのは、「病気にかかった個人」だけで、同じ病気であっても、その病気にかかった患者毎に治療法は異なるはずなんだから、抽象的な病気を叩くことを考えるのではなく、その病気にかかった個人の健康をどう快復させるかを考えなくちゃダメだ、というのですけど、そういうカレルの批判は、まったくその通りと言っていいのではないでしょうか。 あとね、私がこの本の中で、すごく感動した一節がありまして。あんまり感動したので全文引用しちゃいましょう。 「人間は生まれた時には、巨大な潜在能力を与えられている。祖先から受け継いだ素質のほかには、発達を妨げるものは何もなく、その遺伝的素質の限界も広げることができるものなのである。しかし、一瞬ごとに選択をしなければならない。そして選択のたびに、潜在能力の一つを永遠に捨てていく。開かれたいくつかの人生の旅の道の中から、他の道を全部捨てて一つの道だけ選び取らざるを得ないのだ。こうして、もし他の道を旅したら見られるかもしれない国を見る機会が奪われることになる。 幼児の時には、われわれの中には数多くの別な可能性をもった人間がいるが、それは一人ずつ死んでいく。そして老年になると、われわれは別の自分であり得たもの、すなわち、途中で殺されたままに終わった潜在能力に取り囲まれていることになる。すべての人間は、個体になっていく液体であり、だんだん値打ちの下がる宝であり、創られていく過程の歴史であり、形成されつつある個性である。われわれが進歩するのも衰退するのも、物理的、化学的、生理的要因と、ビールス、微生物と、心理的影響に、そして最終的には自分自身の意志によるのである。人間は常に、環境と自分自身によって創られている。生命の存続とは、まさに肉体生活と精神生活の素材そのものである。何となればそれは、「絶対に新しいものを発明し、形態を創造し、それを不断に入念に仕上げていくこと」(→ベルグソンの言葉)を意味するからである。」(231ページ) この一節、これだけは、私も脱帽。すごい人間観だと思います。これこそ、自己啓発思想の最良の一節の一つなのではないかと。 ということで、ナチス的な優生学っぽい怖ろしいところのある本ですけれども、カレルの人間を見る目自体は、なかなかのものなのではないかと。誰もが感心する本ではないと思いますが、一応、興味のある方にはおすすめ、と言っておきましょうか。 ![]() 人間この未知なるもの お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 23, 2017 12:12:24 PM
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