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カテゴリ:教授の読書日記
内田樹さんと鈴木晶さんの共著(?)になる『大人は愉しい』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。
この本、インターネット版公開往復書簡としてスタートし、それを書籍化したもののようで、その時々で二人に関心のある話題について気楽に論じ合うといった感じの本。 そういうものに付き物の、互いが互いに遠慮しいしい、互いにおべっかを使い合い・・・といった感じのものになっちゃうのかなと思いきや、確かにそういうところも若干はありますが、全体として予想していた以上に面白い本でした。 私は鈴木さんの翻訳された本を何冊か、また内田さんのお書きになった本を何冊か読んだ程度の読者ですので、お二人のご専門についてさほど詳しく知っているわけではないのですけど、ご両名ともそれぞれのご専門の知識を背景にしつつ、主題として論じているのは一般人にも関心のあるようなことばかりですので、まあ、誰が読んでも楽しめるものになっているかなと。 特に二人が『忠臣蔵』の話をし始め、なんであの物語が日本人にはやたら受けるのだろう、ということを論じ出すあたりから面白くなってくるんですけど、確かにあの話は、論理的に考えるとよく分からない。なんで吉良は浅野をいじめたのかもよくわからないし、大石が何を考えているのかもよく分からない。で、本質的には「どちらが悪いのか分からない」事件を、「お上」という「父なる存在」が「浅野が悪い」と決めつけたことに対し、大石はじめ赤穂浪士たちが異を唱えるという、いわば「アンチ・オイディプス」的物語なのであって、赤穂浪士たちがやったことは、吉良の私的処刑ではなく、お上が裁定を下す前の原状への復帰である、ってな事を内田さんが言い出し、そこから鈴木さんは「父の裁定の否定は、要するに父の不在の確認だ」と受けて、そこから「日本における父の不在」というさらに大きなテーマに飛び火する。 で、そこから、そもそも日本に父は居たのか、ってな話になり、天皇制だって何だって、あれは女性原理なんじゃないのか、ってな話になって、日本は何でも許し,受け入れてくれる母を土台になりたつ社会だったんだけど、最近、そういう「許し、受け入れる母」が居なくなって、それが今の日本の諸問題の根源にあるんじゃないか、ってな話になっていく。 ・・・ま、気軽に論じ合っているアレですから、この対話の中で出て来た結論的なものが絶対的な真であると、お二人が言っているわけではないし、それに賛同するかどうかは読者に拠るのでしょうけれども、おっさん二人の会話として、雑談として、それに何となく付き合う分にはかなり面白いんじゃないかと。 話の内容、というか話の流れはある程度真剣、ある程度いい加減で、双方が投げかける問いにまともに答え合うこともあれば、さらりと流して次の話題に行くような時もあり、その時々の気分というのがある。その辺のいい加減さも、息苦しくなくていい。 あとね、「師匠とは何か」ということを論じ合っているところで、内田さんが、内田さんの師匠であるレヴィナスと、そのレヴィナスの師匠であるシュシャーニ師の関係を紹介しているところがあって、その辺りを引用しますと: 弟子が師を「理解する」ということは「他者としての師」の定義上、ありえません。弟子は師には「理解が及ばないことを思い知る」ことしかできません。けれども、その「理解の及ばなさ」のありようは、弟子一人ひとり別々で、それぞれにまったくユニークなものでありえます。師の機能とは、第一には、そのようなかたちで「私は他の誰によっても代替不可能なかたちで師とかかわっている」という自己承認を弟子にもたらすことだと私は思います。(164−5ページ) とあるのですけど、この辺りの内田さんの「師ー弟子論」について、私はもう全面的に賛成。というか、同感。というか、私が漠然と思っていたことをよくここまで明確に言語化してくれたと兜を脱ぐ他ない。この一点だけでも、この本を読んだ価値はありました。 ということで、さほど期待しないで読んだ割に、案外、この本に様々なことを啓発されてしまったワタクシなのでありました。この本、教授のおすすめ!と言っておきましょう。 【中古】 大人は愉しい ちくま文庫/内田樹,鈴木晶【著】 【中古】afb さて、今日はこれからまた名古屋に戻ります。明日からはまた平常通りの多忙な日々。あーあ、早く定年にならんかなあ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 12, 2018 05:37:34 PM
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