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カテゴリ:教授の読書日記
先日、『あの日、「ライ麦畑」に出会った』という本のことを書きましたが、あの本に先立つこと8年、1995年に『「ライ麦畑」に出会った日』という本がまた別に出ておりまして、人が『ライ麦畑』とどういう風にどういう風に出会い、どういう感想を持つのかが知りたかったもので、こっちも読んでしまいました。
が! どうもこの本の趣旨を、この本に寄稿している人達は理解しているのかどうか・・・。 だって、本の趣旨がそういうものであるならば、基本、『ライ麦畑』がいかに好きだったか、ということを語って欲しいわけじゃないですか、読者としては。なのに、「昔読んでさっぱり分からなくて、今度、原稿を書くために読み直したけれど、やっぱりよく分からなかった」的なことを書く人が結構いるんだよね。じゃあ、寄稿するなよ、って感じ。他にも、「この小説は男性であることに対する長い言い訳だ」みたいな、すごく批判的なことを書いているフェミニストみたいのも居て、男の『ライ麦畑』ファンとしては読んでいてすごく不愉快。 というわけで、すっごく幻滅させられた本だったのですが、一つだけ、本当に掃き溜めの鶴みたいな素敵な原稿があった。 それは吉元由美さんという作詞家の方の文章で、この人がご自身と『ライ麦畑』との出会いを綴った文章は、とてもとても素晴らしかった。この部分だけで、この本を読んだ甲斐があったというもの。 でね、吉元さんは、まず大学時代に『ライ麦畑』について書いたレポートのことから語り始めます。それは英文で書いたレポートなので、日本語に直すと多少拙いところはあるのですが、しかし、私が見るところ、十代の若い読者がこの本を読んで抱く感想として、とても素直で実感を伴っている。もしこれをホールデンが読んだとしたら、ニコッと笑ってくれるだろうなと思われるようなものなんですな。 で、それ自体もそうなんですけど、それ以上にステキだなと思ったのは、その昔書いたレポートを、『ライ麦畑』のペーパーバックと共に吉元さんが大切に保存し続けたこと。吉元さんは、この自分の行動について、こう語ります: どういうつもりでとっておいたのかわからない。まさかいつか何かの役にたつと見込んだわけでもないだろう。たぶん「ライ麦畑」を持ち歩くことで、何かとつながっているような気がしたのだと思う。 その何かとはいったい何なのだろう。それを解き明かすには、私がこの小説に出会った頃のことを話さなくてはならない。もしかしたらその頃が現在の私の〝種” のようなもので、ある意味で私はそこから出発したような気がするのだ。(124頁) と書かれている。 そうだよ! これだよ! これこそ、この本のあるべき姿だよ! そして、ここから吉元さんは高校時代、他人からは「気楽な人」と思われていたようだけど、実際には自分の中にも色々葛藤があって、他人からの評価と自分のありようの狭間に存在していた、というような話をされていく。 例えば、吉元さんと同じく『ライ麦畑』を読んでいた親友の一人が、17歳のクリスマスの日に吉元さんの家に泊りに来て、その日を共に過ごすのですが、その時、その親友がぽつりと「私ね、煙草吸っちゃったんだ」と言ったと。 たかが煙草、だけど17歳の女の子にとっては一つのジャンプだったはず。その辺り、吉元さんの文章を引用しましょう: とにかく彼女の「煙草吸っちゃったんだ」という告白はクリスマスの粉雪にふさわしいほどのインパクトがあった。どういうことかと言うと、善と悪があるなら、私でも悪になれるということだ(私たちにとってその頃煙草は“悪”の領域だった、もちろん自分たちが吸うという点において)。悪いことをしてはいけない・・・・という環境、また自分自身で作り上げたルールを破る快感があった。ルールを作るということは、自分たちはこうありたいという幻想を同時に作ることだ。私も彼女もまさにそんな幻想の中にいたのだと思う。それは次第に殻のようになり、ちょっとやそっとのことでは飛び出せないような気がしていた。(127頁) ひゃー! なんて瑞々しい! これこそ、ホールデンの世界そのものだよ! それから吉元さんは、ホールデンの嘘つき癖について触れながら、自分にもそういう経験があると言うんですな。その頃、同じクラスに他人のことばかり気にするクラスメートがいたと。そこそこ成績優秀だったのだけど、試験が近くなると、やたらに「ねぇ、勉強している?」と聞きに来る。もちろん「全然してない」という答えを期待しているのが見え見えなんですな。 で、そういうのに我慢できなくなった吉元さんは、試験間近のある日、その子が例によって「由美、勉強している?」と聞いてきた時、大嘘をつくわけ: 彼女は私の机の端にもたれて、私のノートをのぞき込んだ。私はそのとき憎悪にも似た感情にかられ、彼女の目を見て〝言ってやった”のだ。 「毎日百時間くらい勉強していてクタクタよ」 そのときの彼女の顔を思い出すと今でもおかしくなる。鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目をぱちくりさせて息をのんだまま立ち尽くしていた。そして「あら、そう」とひとこと言って自分の席に戻って行った。どんな答えを期待していたか知らないけれど、私は内心おかしくて笑いが止まらなかった。つまり彼女は〝インチキ”で私はすごい〝嘘つき”だった。だけど私の方はなんとなく気持がすっとして、楽しい気分になったものだった。(133頁) まさに! これが『ライ麦畑』の世界だと言わずして何と言おう。世界がインチキだというのは、こういう意味だし、ホールデンが嘘つきだというのは、こういう意味でしょう。だから、吉元さんにはホールデンの気持が完全に理解できているんだと、私は思いますねえ。 で、先に吉元さんは、『ライ麦畑』やそれについてのレポートをずっと捨てずに持ち続けたのは、何かにつながりたかったからだけど、その何かって何だろう、という問いを発せられていたわけですけど、色々考えた挙句、それは神さまにつながりたかったのではないか、という答えを導き出すんですな。それは宗教的な何かというわけではなく、例えば生まれたばかりの赤ん坊が神さまとつながっているとしか思えないように、そういう風に神さまにつながっていたい気がしたのではないかと。 なぜなら、人は一人では淋しいから。 そして、吉元さんは大学時代のそのノートの余白に、「前にもこんな夏があったような気がする。時間がくるくると巻き戻されて、気がつくと私はいつも同じ場所に立っている」と書いていたことを発見するわけ: 自分でも忘れ去ってしまった自分がいる。こんなふうに私たちはこれからも膨大な過去を置きざりにして生きていくのだろう。憶えていることもあれば忘れていることもある。それはそれでいいのだろう。それが生きていくということで、悲しむようなことではないのだから。ただあの頃に関してこれだけは言えるのは、私は『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいる自分がとても好きだったということ。同じ頃に読んだ友達のことも。淋しいのは彼女たちが今ここにいないということだ。(144-145頁) とこの文章を結ばれる。ちょっと出来過ぎだけど、分かるねえ・・・。 あとね、吉元さんの文章の中でもう一つ共感したのは、この小説のタイトルの日本語訳が『ライ麦畑でつかまえて』であることについてのコメント。 この野崎孝訳のタイトルだと、「ライ麦畑でつかまえてね、私のことを」という意味に取れるというんですな。それが期せずしてこの小説の魅力になっていると。 本来、『The Catcher in the Rye』というのは、「ライ麦畑でつかまえる人」という意味だから、本来は捕まえる側なんだけど、野崎訳ではそれが逆に「捕まえて下さい」と、捕まる側に感じられてしまう。そこが、すごくいいと。 あー、わかる、それ。不安定なティーンエイジャーにとって、私のことを誰か捕まえていて、と言いたくなる気持ってあるよね~。 というわけで、この吉元由美さんの文章は、これ自体、一つの『ライ麦畑』だと言いたいくらい、素晴らしい出来だと、私は思います。他の文章があまりにもひどいので、その分、余計に素晴らしさが目立つ。いわば、フォニイな世界に一つ取り残されたイノセントな小島みたいなものよ。 ということで、吉元由美さんの文章だけを読む、という条件付きで、この本、教授のおすすめ!に決定! 『中古』「ライ麦畑」に出会った日 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 30, 2018 06:34:30 PM
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