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カテゴリ:教授の読書日記
池田純一さんの書かれた『ウェブ×ソーシャル×アメリカ:〈全球時代〉の構想力』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。
ちなみに本書の内容は、一言で言えば「(アメリカが牽引する)ウェブの行く末を考える」というもので、当然、そういう方面のことがあれこれ書かれているのですが、私は必ずしもそういう方面に興味があって本書を読んだわけではないんですな。ただ、本書にはその前提として、19世紀アメリカのトランセンデンタリズムとか、スチュアート・ブランドの『ホール・アース・カタログ』についての考察が含まれていて、私はそこに興味があった。というわけで、以下のまとめも、私が自分自身の興味に従って抽出したものであるという意味で、非常に偏ったまとめになっていることをあらかじめ言っておきたいと思います。要するに、本当はもっと広い話題のことが本書には書かれていますよと。また、第1章の内容から順番にまとめているわけではなく、これまた私の興味に従って、歴史的な順番に直してまとめてあることもあらかじめお断りしておきます。 さて、池田さんはアメリカ文化のことを、あえて「アメリカのプログラム」という言い方をするんですけど、その心は「アメリカ社会に特徴があるとすれば、それはどこかで信じたもの、考えたものが、実際に実現する、と思われるところにある」(164頁)から。パソコンのプログラムのように、どこかにあらかじめ(プロ)書き込んだもの(グラム)が、適宜動き出すと。 で、じゃあ、アメリカの文化(=プログラム)はいつ書きこまれたのか、ってことになると、おそらく19世紀半ば、アメリカ文学史的に言うと「アメリカン・ルネッサンス」の時代だろうと。まあ、どうやら池田さんはそのようにお考えらしい。 この時代、まだアメリカの大学は研究機関としての体をなしておらず、文化は市井のアマチュアの中から生まれてきた。つまり、エマソン、ソロー、ホイットマン、メルヴィル、ポー、マーガレット・フラーといった連中の思想・言説が出版を通じて同時代の人々の間に行き渡り、アメリカ人としての自意識を生み出すことに貢献し、それがアメリカの文化となったと。 で、この連中の言説がどうして重要かと言いますと、彼らの言説が「多分に当時の主流の文化や風潮に対して意を唱える(=対抗する!)もの」(168頁)であり、欧州伝来の文化的伝統(=メインストリーム)に対して、アメリカ・オリジナルの文化だったのであって、いわば「カウンター・カルチャー」だったから。アメリカのカウンター・カルチャーの伝統の出発点がここにある、というわけ。 中でも重要だったのがエマソンのトランセンデンタリズム。エマソン自身が伝統的神学からドロップアウトした経歴の持ち主であって、最初のヒッピーみたいなもんなわけですけれども、彼が唱えたトランセンデンタリズムにしても、「自然との神秘的一体感と賛美」「東洋思想の影響」「自己信頼と独立独行(=Do-It-Yourself精神)」からなるわけで、これにソロー的な「市民的不服従」をプラスしたら、もうこれ、1960年代のカウンター・カルチャーそのものでしょ、っていうね。ついでに言えば、今日のコミックを含むアメリカ大衆文化だって、「トランセンデンタリズム+アメリカン・ルネサンス+ゴシック+サブライム」で作られているわけだし、スピリチュアルの流行だって、この辺りに根がある。 あとですね、ヨーロッパの文化というのは、「父ー子」という縦つながりの文化であるわけですが、それに反抗したアメリカ文化は、(ジル・ドゥルーズが指摘するように)「兄弟姉妹」的な横のつながり、すなわち「同志による連合主義」としての色合いが強いと。アメリカ独立宣言が書かれたのも「兄弟愛」を意味する「フィラデルフィア」において、ですからね。ちなみに「連合主義」とか「同志」というのは、ホイットマンの言葉だそうで、やっぱりこの辺もアメリカン・ルネサンスの影響大。 で、ドゥルーズ曰く、アメリカ人ってのは「多様性と可変性からなる集団」だそうですが、要するにアメリカ人は、志を同じくする者同士、その時々で集団を作るのがうまいし、また志が変わればその集団を崩してまた別な集団を作る柔軟性・可変性があると。で、フランス人のトクヴィルもアメリカ人のこの習性には気づいていた(182-183頁)。トクヴィルが生きた19世紀初頭の欧州も、ナポレオン戦争後の新秩序を模索していた時代ですから、すでにデモクラシーが実現していたアメリカ社会の在り方には、興味深々だったんですな。で、アメリカ人固有の、同志による連合を自発的に作る技術を「母なる知識」と呼んで評価した。 ちなみに、こういう風に新たな集団、新たなコミュニティーを作るというのは、「まだ存在しない集団を作るために理想を重ねる点でユートピア的」(178頁)です。また、「ユートピアは、文学的な、想像力の世界と極めて親和性が高い」(178頁)。要するにこのまとめの冒頭で触れたこと、すなわち「アメリカ社会に特徴があるとすれば、それはどこかで信じたもの、考えたものが、実際に実現する、と思われるところにある」ということにも重なってくるわけ。 ちなみに、アメリカという国自体が、そもそも志を同じくする者同士が作った新たな集団であるわけですが、ロバート・N・ベラーによれば、その際の参照軸ってのが3つあって、それが「聖書」「ローマ」「ジョン・ロックの社会契約説」だと。まず「聖書」について言えば、秩序ある非君主的教会(つまりカトリック的ではない、プロテスタント的な教会)であれば、秩序ある政治体制と共存が可能だ、というカルヴァンの考えに導かれ、倫理的な社会を築こうと。次に「ローマ」について言えば、『アエネーイス』が描くローマ建国の物語と同様、多様な民族が志を同じくすることで一つにまとまり、「ローマの平和」という言葉で表されるようなリニアな永久発展運動(ギリシャの円環的な時間ではなく)によって拡大し続ける国家のイメージがあったと。共和国とか大統領とか上院議会とか、ローマの政治体制にちなんだラテン語起源のネーミングを冠した政治機構がアメリカで採用されているのも、その辺にルーツがある。最後に「ジョン・ロックの社会契約説」について言うと、アメリカ人にとって重要なのは私有財産であって、それを守ることを約した政府と契約を結ぶことで統治を委任する、そういう功利的な側面があったということ。アメリカ人にとって重要なのは、自由な個人による自由な活動の保証なんですな。 だけど、そうやって出来たアメリカというポストモダンな国は、横つながりの社会なので、欧州的な縦つながりの社会と比べると精神的寄る辺(まあ、公的権力としての神、ですな)が欠けていた。自由な個人は自由でいいけど、自由すぎることからくる頼りなさや不安がどうしてもある。だから、こういうタイプの国には宗教が必要だろうと。トクヴィルはそこまで見抜くんですな。「トクヴィルは、平等を是とするデモクラシーからなるアメリカにおいて、社会を組織する手助けになるものとして宗教を肯定的に評価した」(185頁)。 だけど、19世紀も終わりに近づくと、カトリック国からの移民も増え、アメリカは宗教の面で一枚岩ではなくなっていく。で、プロテスタント・オンリーの社会ではなくなったが、それでもアメリカには宗教が必要、となった時に、かの心理学者ウィリアム・ジェイムズが登場して、「従来のような教会や宗派のような組織から捉えるのではなく、あくまでも「ある個人にとっての宗教的体験とは何か」という点に注目して、アメリカにおける宗教を捉えようとした」(186頁)。つまり「別に特定の宗教でなくてもいいじゃん、宗教的体験ならなんだっていいよ」と言い出したわけね。で、例の名著『宗教的経験の諸相』で宗教を「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合にだけ生ずる感情、行為、経験である(同書上52頁)」と定義した。 だからジェイムズは「事物に内在している神性、宇宙の本質的に霊的な構造が、超越論者の崇拝の対象なのである」(187頁)ってなことを言って、エマソンを認めるわけね。 ジェイムズはパースやデューイと等しくアメリカで誕生した哲学・思想であるプラグマティズムの創始者なわけですけれども、要するに彼は、池田さんの言い方によれば、「信じるということを信じた」わけ。「ある確信に基づいた行動がその確信で想定した事実に辿りつくのであれば、その確信をさしあたって真理と呼んでもいいのではないかというのが彼の立場だった。つまり、何かを「信じる」ことの効果を肯定的に捉えた」(189頁)。真理であると信じたものが真理である、というのは科学的ではないかもしれないけれど、ジェイムズはそれを認めたと。 で、この「真理であると信じたものが真理」「信じて振舞うことが現実を変える」というプラグマティックな姿勢こそが、アメリカ人の心性だと、池田さんは指摘するわけ。 おお! 自己啓発思想のルーツがここにあるではないの!! ・・・で、ここから先、今度は20世紀後半の話になっていくのですけど、ここまでですでに大分長くなってしまいましたので、この先の話はまた明日、続けることにしましょう。 ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) (新書) / 池田純一/著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 4, 2020 07:47:59 PM
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