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釈迦楽

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June 14, 2020
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カテゴリ:教授の読書日記
『エスリンとアメリカの覚醒』という本のまとめの3回目です。

〇1967年9月、『タイム』誌がエスリンの特集をした。当然、エスリンのスタッフの間でも熟読されたが、「ボディワーク」のバーナード・ガンサーや、「エンカウンター」のウィリアム・シュッツについての記事が多かったのに比し、「ゲシュタルト」のパールズについての記事が少なかったことから、パールズが嫉妬し、これがエスリンの輪を乱すことになる。(166-8頁)

〇1968年9月2日号のアジア版『ライフ』のエスリン特集では、パールズの写真も掲載されたので、多少は収まったが、エスリンが有名になる過程で、この種の旗取りが行われるようになってしまったのは由々しきことではあった。(170頁)

〇1968年1月、エスリンで最初の死者。ロイス・デラルトがMDAを多量に飲んで死亡。(178-9頁)。この後も、自殺者を含め、何人かの人がエスリンで死ぬこととなる。同年(?)、パールズの患者で愛人だったマーシャ・プライスはライフルで自殺(この時パールズはまったく自責の念に捕われているフリもしなかった)、1969年にはジューディス・ゴールドが浴場で溺死。(196-7頁)

〇ヒューマニスティック心理学は、アブラハム・マズローを中心として、心理学の「第三勢力」として出てきたもの(第一勢力は精神分析、第二勢力は行動主義)であって、マズローは1961年にアンソニー・スーティッチと『ヒューマニスティック心理学雑誌(Journal of Humanistic Psychology)』を創刊(編集委員にはジェームズ・ブーゲンタール、ロロ・メイ、マズロー、カール・ロジャーズといった心理学者たちに加え、オルダス・ハクスリー、アーサー・ケストラー、ルイス・マムフォード、マイケル・ポラニーなどのヒューマニストたちも含まれていた)、1963年には「アメリカ・ヒューマニスティック心理学会」が第一回大会をフィラデルフィアで開催したわけだが、一般大衆から見れば、ヒューマニスティック心理学と、エスリンの運動は完全に一致しているように見える・・・というか、エスリンがヒューマニスティック心理学会の牙城であるかのようなイメージを持たれてしまったのは致し方ないところ。しかし、学問的な学会と、活動中心のエスリンが同一視されることについて、学者の方では迷惑がるところもなくはなかった。(182頁)

〇1960年代末から、エスリン・ブックスという叢書の刊行が始まる。(188-9頁)

〇1969年、マーシャ・プライスとジューディス・ゴールドがエスリンで自殺した後、フレデリック・パールズはエスリンを去り、カナダに自身の研究所を作った。ただし、間もなく死亡。(200-203頁)

〇1970年代初期、エスリンは全米に知られるようになり、エスリンをモデルにしたグロウス・センターがアメリカ中に100個以上あった。(204頁)

〇エスリンには特定の確固とした方向性があるわけではなく、むしろ断固として行き当たりばったりなところがあったが、その反面、どんな領域の学問でも受け入れ、またどんな無名の学問領域であってもそれを全国区に押し上げるだけの力を持っていた。いわば、学問領域のショー・ウィンドーのようなところがあった。(206頁)

〇一方、1969年から70年の間に、エスリンは三人の貢献者を失うことになる。ジェームズ・パイク、フレデリック・パールズ、アブラハム・マズローの三人である。そしてマーフィーとプライスも1970年には40代に突入していた。(207頁)

〇マイケルはスチュアート・ミラーらとビジネスがらみのヨーロッパ旅行に出かけ、そこでロベルト・アサジョーリ博士と出会う。アサジョーリは「サイコシンセシス」の提唱者。マイケルはサイコシンセシスの何たるかを既に知っていたが、高齢のアサジョーリ本人に出会ってインパクトを受け、その後、サイコシンセシスはエスリンの主要テーマの一つとなっていく。(216-8頁)

〇ラム・ダスは、インドから戻ってきた直後、しばらくエスリン周辺に居たが、その後再びインドに行った。(223頁)

〇ヒッピー・カルチャーは、「ヒューマン・ポテンシャル運動の狂気に満ちた若者版」だったが、1967年夏のマスコミの誇大宣伝による頂点から、1969年のチャールズ・マンソン事件のどん底へと急落していった。
 しかし、「若者がアメリカを救う」という本質的なメッセージは生き残った。その代弁者がチャールズ・ライクであり、彼の『緑色革命』であった。この本によると、革命は進行中で、アメリカ社会のすべての局面を美しく人間的に変容させるだろう、ということであった。(226頁)

〇セオドア・ローザックも『対抗文化の思想』の中で、「階級ではなく意識がこれからの革命の原理である」と述べたが、1960年代のローザックの本と、70年代のライクの本では、やはり違いもあった。『対抗文化』が若者の運動のある側面、とりわけ幻覚的な啓示への熱中を批判し、また運動は長く険しい道をたどり、世代の中で最もすぐれた人たちが革命を成し遂げるだろうと予測したのに対し、ライクの本おうした条件や心配に頁を割かなかった。彼は若者たちの間に目的を見る知恵と目的に向かう力しか見なかった。ある批評家はライクを評して「彼の刃は決して諸刃の剣ではない」と述べた。(227頁)

〇ライクのこうした楽観的な若者観は、激しい批判を浴びた。特にピーター・マリンは『タイムズ・リテラリー・レヴュー』に載せた文の中で、ライクの意識の見方には「多種の政治的無意識がある」と指摘した。彼は続けて「(解放された)人びとはいまだに盗んだ土地や、盗んだ労力や、盗んだ時間を食い続けている金持ち階級の一部だという事実・・・。新しい意識をもつ人々はがそれを政治のなかに表現する道を見つけることができないこと・・・。第三意識を持つ人びとの間には、革命的であると同時に伝統的な暴力が増大しつつあること・・・。同時にすべての少数グループが解放されていない状況・・・。」と述べている。(228頁)

〇こうしたローザックの批判は、ライクに対するものであって、エスリンとは無関係だが、エスリンの在り方はライクの若者観に近いものがあったのも事実で、ピーター・マリンはのちに「ヒューマン・ポテンシャル運動のナルシシズム」という文で、グロウス・センターに参加する人たちやヒューマニスティックンり学者のなかにも、ライクと同じような政治的欠点があると指摘するが、この批判は確かにエスリンに当てはまるところがあったし、世間の見方もそのようなものに収束していった。つまり「ライク流の若者運動も、エスリン流のヒューマン・ポテンシャル運動も、ヒューマニスティック心理学も、結局は同じもの、中流階級出身で千年王国を夢見る、幸せで、素朴で、政治に無関心な態度なのだ」と。(228頁)

〇チャールズ・マンソンは、かすかながらエスリンとかかわりがある。シャロン・テート事件を起こす三日前、ヒッチハイクで乗せた女の子と二人、エスリンを訪れ、ロッジで即席のコンサートをやった。コンサートは受けず、マンソンも不本意に立ち去った。またマンソンに殺されたアビゲール・フォルジャー(コーヒー会社と関連あり)もエスリンのセミナーに参加したことがあった。(233-4頁)

〇1971年、エスリンのサンフランシスコ支部の近くに「エスト」ができた。ウェルナー・エアハルトが創設した組織で、セルフ・ヘルプ、ポジティヴ・シンキング、成功思想を接ぎ木したヒューマン・ポテンシャル運動のアメリカナイズ版と言えた。
 エストの中では、デール・カーネギーが最高の人物であり、アラン・ワッツ、フリッツ・パールズ、アブラハム・マズロー、そしてサイエントロジーの創設者ロン・ハバードなどがカーネギーと同列の偉人とされていた。(249頁)

〇エアハルトは高卒で、クルマのセールスマン、通信教育の訪問セールスマン、「グレートブックス」のセールスマンを経て、自分でもセルフ・ヘルプの本をむさぼり読んだという。彼が最も感動した本はナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』とマックスウェル・モルツの『サイコ・サイバネティクス』だった。
 エアハルトは部下に紹介されてマズローやロジャーズの本を読み、ゲシュタルト療法の本を読み、エスリンにも通ってフリッツに会い、シュッツのエンカウンターにも出て、ワッツの教養は真似できなかったが、その教授スタイルを真似た。禅を身につけ、デール・カーネギーのコースをとり、武道を習い、シャーロット・セルヴァーのセンサリー・アウェアネスを体験し、サイエントロジーも勉強した。イギリスのアレクサンダー・エヴァレットが開発した自己啓発訓練法「マインド・ダイナミックス」のインストラクターになったが、エヴァレットは神智学、エドガー・ケーシー心霊術、シルヴァ・マインドコントロールなどを勉強した。そして、これらを突き交ぜた「エアハルト・セミナーズ・トレーニング(エスト)」を立ち上げたのだった。(250頁)

〇1970年代、マーフィーの戦略の一つは彼自身の得意分野たるスポーツだった。彼はスポーツというアメリカの主流文化に、ヒューマン・ポテンシャル運動を接続したいと考えていた。マーフィーの協力者-ジ・レンナードは、エスリンのパンフレットにこう書いた:
 「変革は始まっている。スポーツはどんな社会でも鍵となる接点である。この社会に平和で人間的な変革をもたらすのにスポーツの改革から始めることができる。知識人のなかには、スポーツは真剣に考える問題ではないと考えて、人生のこの局面を無視してきたものもいる。ボールが飛んで行くのもつまらないことではない。その軌跡は惑星の軌道を示すのだ。人間はからだを動かすことによって、哲学者ピタゴラスが「宇宙」と呼んだものを知ることができるーーこの言葉は完全なる秩序と極限の美という考えを含んでいる。スポーツは非常に美しく深遠なものだから、単純なスローガンにすることはできない。私たちがどのようにゲームを楽しむかは、想像する以上に大事なのだ。それは私たちの世界内存在(being in the world)のあり方を意味するからである」
 マーフィーは「スポーツと精神的体験の結合」、すなわち「からだとこころの新しい結合」を夢見ていた。(253-4頁)

〇ほんとうに自己の成長を望むなら、何か体育的なことをしなければならないという考え方が、サブ・カルチャーの中に浸透していった。この目的のためのものとしては、武道、特に合気道の人気が高く、ついでヨーガ、そしてランニングが続いた。
 そしてこうした考え方が広まるにつれ、新しいジャンルのスポーツ本が登場してきた。例えばティム・ゴールウェイの『精神的ゲームとしてのテニス』(後にシリーズ化し、『精神的ゲームとしてのゴルフ』『精神的ゲームとしてのスキー』などが出た)またマイク・スピノの『ジョギングを超えてーーランニングの精神空間』も出た。このジャンルの古典としては、オイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』も有名。
 これらの本が言わんとするのは、身体的活動の中に静寂な瞑想的精神が現れるのであって、逆にそれを邪魔するのが自我である、ということだった。そしてそれはヨガやゲシュタルト療法の狙いと同じともいえた。
 こうしたことはエスリンがこれまで実践してきたこと、つまりゲシュタルトによる身体の気づき、エンカウンターにおける身体的側面、新・ライヒ派の療法、マッサージ技法などからすれば当然の帰結ではあったが、中流アメリカ人の男らしさの牙城たるスポーツに、精神性を見たり、それを自己発見のための道具に使うといったことは、『王国のゴルフ』の著者でもあるマイケル・マーフィーの独創によってしか思いつかないことではあった。(254-5頁)

〇エストのエアハルトとマーフィーは友人であったが、あまりにも急速に進展するエストに、マーフィーは懐疑的でもありまた警戒もしていた。(267頁)

〇エストは、エアハルト自身の人格の問題も含め、例えば詐欺のようなしつこい販売、トレーニング自体の歴史認識の欠如、社会意識や共感・常識の欠如など問題点が多かった。とりわけ、その綱領、すなわち「すべての人間は自分の人生を全く自分で作るものであり、どんなことが起こっても自分に責任がある」という綱領に問題があった。(268頁)

〇ただ、世間の認識としては、エスリンは「ヒューマン・ポテンシャル運動のハーバード大学」(ニューズウィーク誌の評言)であって、エストの商業主義とは比べ物にならない高尚さを持っていたし、それはエスリンのリーダーであるマイケル・マーフィーやリチャード・プライスの人格によるものであった。(271頁)

〇ヒューマン・ポテンシャル運動は政治に無関心であり、潜在的に保守的である、というのは、左翼インテリ雑誌に繰り返し主張される公式なのだが、セオドア・ローザックによれば、カウンター・カルチャーは本質的に革命的なものであり、しかしそれは新しい種類の革命だという。
 ローザック曰く、カウンター・カルチャーの破壊的な教義は、階級や権力、生産性には向けられずに、心理療法やサイケデリックな薬物、東洋宗教独自の「精神の解放」に向けられる。ローザックはこの新しい意識革命に対していくつかの点で批判はしたが、おおむね好意的ではあった。
 一方、右翼は感受性訓練とかエンカウンターを共産主義的洗脳方法とみなすようになり、保守主義者の間でもヒューマン・ポテンシャル運動は反体制的だという意見が多くを占めるようになった。(276-7頁)

〇ロロ・メイは自らもヒューマニスティック心理学の創設者の一人であり、エスリンの初期の指導者でもあったが、このころはエスリンに批判的であり、エスリンの哲学は危険なほどに軽量級であって、人間体験の暗い側面を扱っていないと考えていた。(283頁)

〇かくしてエスリンは右翼からも左翼からも批判の対象となり始めるのだが、これにトム・ウルフも加わることになる。ウルフ曰く、1970年代は「ミー世代」であり、エスリンのやっていることは自己をいじくりまわす道具であり、古の錬金術のように、昔のパーソナリティを変え、自己を作り直し、新しい型にはめ、向上させ、磨き上げ、それを観察し、べったりくっつくこと、すなわちミー世代特有のナルシシズムなのだと決めつけた。(278頁)またジャーナリズムも、ミー世代論争を受け、1970年代の政治からの逃走と不毛な自己愛への耽溺について、エスリンがリーダーシップをとった、と主張した。(286頁)

〇トム・ウルフはエスリンに対して嘲笑的であった(279頁、しかしエスリンはまったくウルフを問題にしなかったーー284頁)、その他、『ボブ&キャロル&テッド&アリス』という映画や、カリフォルニアの女性作家サイラ・マックファデンがセラピー中毒の主婦を描いた『ザ・シーリアル』という小説(後に映画化)、あるいはテレビ番組の『I Want It All Now』など、エスリンをモデルにしたと思しき、嘲笑的な作品が出た。(279頁)またゲイ・タリーズの『汝の隣人の妻』に出てくる南カリフォルニアのセックス温泉のモデルもエスリンである。しかし、言われているほどエスリンはセックスに固執していない。(293頁)

〇こうした批判に対し、ヒューマン・ポテンシャル運動側は、トーマス・クーンの著書『科学革命の構造』で使われた「パラダイム」というこの時代の流行語を用いて、自分たちの新しい世界観と、旧弊な世界観の間でパラダイムの軋轢が起こっているのだ、と解釈した。(280-1頁)

〇フリッツ・パールズのゲシュタルト療法の目標は自己への気づきであり、両親の拒否や社会的同調によって窒息させられた思考や感情を、パーソナリティの中に統合することであった。フリッツはセラピーの目標は自己実現であって、自己イメージの実現ではないと言った。人は自分自身になるのであって、ならなければならない自分になるのではないと言った。(284-5頁)

〇社会からの批判に対し、エスリン・サイドも一応、対応しようとしていた。
 例えばローザックの擁護(287頁)にも関わらず、エスリンは政治的でないという批判はずっとあったわけだが、これに対応すべく、エスリンでも1970年代後期と80年代初期に、社会的・政治的問題についてのプログラムを組んだが、参加者が少なすぎて実現しなかった。やはりエスリンは休息やセラピーのために人が集まるところであって、政治活動のセミナーの場所ではなかった。しかし、マイケルはいまだに努力を続けている。

 〇一方、エスリンは反知性的であるという批判については、人生の大半を哲学的思想に費やしてきたマイケルとしては受け入れがたいものではあったが、確かに初期の「古典時代」に知的な座学が行われたとはいえ、パールズのゲシュタルト療法は「考えることをやめて感覚にかえれ」ということを参加者に要求したことは確かだった。そしてそれは、エスリンが発したメッセージの中でも最も世間に広まったものでもあった。(288頁)
 ・・・ということは、ブルース・リーの「Don't think-- feel!」も、このあたりに根があるのかも知れない。

〇確かにエスリンのセミナーでは頭で考えることは非難され、感情を表に出すことは推奨された。つまり、頭でっかちの文明への対処法として身体への気づきが奨励されたのだが、振り子がふれすぎて、反知性主義の方向にまで行ってしまった気配はあった。マズローやロロ・メイが危険視したのは、まさにそこだった。(289頁)

〇エスリンにも楽観主義はあったが、それをさらに極限まで推し進めたのがエストだった。エストはポジティヴ・シンキングという素朴なアメリカ人の思想を極限まで押し上げ、アメリカ人の楽観主義に拍車をかけた。エストを身につければ、あなた自身が自分の宇宙を創造する万能の力を手に入れたことになるのだ、というメッセージが、エストにはあった。
 そしてエスリンの有力なメンバーであったウィル・シュッツもまた、エストの影響を強く受けていて、個人的責任という倫理を通して達成されることには限界がない、という確信を持っていた。彼の『単純さの深い意味』という本には次のように書いてあった:
 「すべての人は自分の人生を自分で生きているのだ。自然の法則は私たちが機能してほしいというときにだけ機能する。・・・自分のアウェアネスが増大するにつれて、自分の存在をコントロールする力も増大する。・・・すべてのことを自分で選択したのだと気づくとき、私は自分の世界を支配し、自分の選択するどのような生き方もできるのだ」と。(290頁)

〇いずれにせよエスリンは、大きな時代の変遷、すなわち、人間が自分自身と世界をどのように体験するかについての基本的な移行、が近づいているという考え方に、常に結びついていた。(291頁)

〇1980年代に入ると、もはやマスコミはヒューマン・ポテンシャル運動について騒がなくなった。千年王国も到来しなかった。しかしエスリンの事業、エスリンの技法は、伝統的なセラピーやカウンセリングの中に浸透したのだから、それは成功だったのだ、ということもできる。
 またエスリンは他のグロウス・センター(マサチューセッツの「ニュー・アルケミー研究所」、コロラドの「ウィンドスター」、北カリフォルニアの「ファラローンズ研究所」など)にならい、太陽エネルギー、有機農業、風力、水耕栽培法などを取り入れ、施設としてはますます成功していた。(310)

〇エスリンの創設者マイケル・マーフィーとリチャード・プライスは、エスリンと付かず離れず、いい関係を保っている。ただ、エスリンの施設面により深く携わっていたプライスは1985年1月下旬に、設備内の点検をしている時、がけ崩れで崩落した石に当たり、亡くなっている。(322頁)

〇『可能性をひらく』(原題:Please Touch)という本の中で、ジェーン・ハワードが、エスリンの発音は「レスリング」と同じだ、と述べている。(訳者あとがき)


・・・とまあ、こんな感じですかね・・・。


 そんなに大部な本ではないのですが、エスリン研究所の創設から80年代までを追った本というのは他にはなく、それだけでも貴重な本であるし、またその内容も興味深く、エスリンの存在意義を考える上で示唆に富む文章が多いものですから、まとめるだけでも三日掛かってしまいました。

 これを読むと、60年代から70年代にかけてのアメリカの精神面がよく分かるので、本当に勉強になります。書き方がめちゃくちゃ面白いかとか、めちゃくちゃ感動的かというと、そうでもないのですけれど、読み取るべき内容のたっぷりある本です。その意味で、教授の熱烈おすすめ! と言っておきましょう。





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Last updated  June 16, 2020 11:37:44 PM
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