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August 1, 2020
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カテゴリ:教授の読書日記
竹林修一さんの書かれた『カウンターカルチャーのアメリカ:希望と失望の1960年代』(第2版)という本を読了しました。たまたま今、カウンターカルチャーのことを調べているので、参考になるかなと思って読んだのですが、これがね、なかなか優れた本だったのよ。期待値の倍ぐらいの収穫。書いた竹林さんという方は東北大の准教授だそうですが、まだお若い(40代くらい?)方なのかな? 例によって著者紹介のところに生年が書いてないという欠陥(いつも言いますが、研究者たるものが本を出すにあたって自分の年齢を明示しないのはハッキリいって欠陥です)があるので分かりませんが、なかなかよく勉強されている。

 以下、自分の仕事のための心覚えなので、箇条書きになりますが、そこは一つご海容下さい。

〇ベトナム戦争に関し、最初に反戦の意志を表明したのは学生中心の政治団体SDSだった。SDSは1965年4月に反戦のためのワシントン行進を行い、これをきっかけとして全米の大学キャンパスに反戦デモが広がった。(5)

〇1970年4月、最初の「アース・デイ」開催、以後毎年開催されるように。なお、同年12月に政府内に環境保護庁(Environment Protection Agency)設立。(5)

〇サンフランシスコで無料炊き出しをやったdiggers は、もとはサンフランシスコ・マイム・トループという社会風刺劇団から分裂派生した一派。(9)

〇ロック音楽の持つ身体感覚の変容を理論支援するなど、ヒッピーの理論武装の後ろ盾となったのがポール・グッドマン。彼は身体を社会的抑圧と人間の可能性が衝突する場所であると考え、身体の状態を自覚することは社会改革の第一歩だと説いた。そしてロックは、身体的に理解する音楽であるとした。(21)

〇そのロックの商業的側面に目を付けたのが、ビル・グラムだった。彼はヒッピー系のロック・コンサートを主催し、成功させた。ウッドストックもその一つ。ただし、ヒッピーのスピリットを商業活用しているとして批判されることも。(21-2)

〇ティモシー・リアリーは、1967年1月の「ヒューマン・ビーイン」に招待され、スピーチをする。この時のスローガン、Turn on, Tune in, Drop out には、高度資本主義に制御された身体と精神構造の解放を促すものであり、LSDはそのためのツールであると主張した。(33)

〇1965年1月、ヘイト・アッシュベリー地区にサイケデリック・ショップが出来、ヒッピーたちが好みの服やレコードなどを買いつつ、ここでLSDを買った。当時はまだLSDは非合法ではなかった。(34)

〇1966年4月、サンフランシスコの左翼系雑誌『ランパーツ』がLSDについての論文を掲載。ヒッピーたちがLSDに惹かれる理由として、心の内側を探求できるツールだったからだとした。この記事が出た時点では、LSD の法的位置づけは、製造には許可がいるが、所有は認められるというものだった。そのため、無許可でLSDを製造する者も出てきて、なかでもアウグストス・オズリー・スタンリー3世が作ったLSDは、気持ちよくトリップできるという評判だった。キージーは、スタンリー3世のLSDを愛用し、1965年12月のアシッド・テストでもこれを指名した。(35-6)

〇1966年1月21日から23日までの3日間、トリップス・フェスティヴァル開催。企画はスチュアート・ブランド。(36)

〇キージーも訪れたことのあるティモシー・リアリーのミルブルック研究所はFBIの度重なる強制捜査により1966年に閉鎖に追い込まれた。かくしてリアリーはサンフランシスコへの移住を決意、同年9月、西海岸に落ち着いたリアリーは League for Spiritual Discovery なる組織を結成。これは科学的な研究所というよりは宗教団体と言えるほど宗教色が強く、そこでLSDは聖餐という位置づけだった。これはヒューマン・ビーインの1か月前の話。(39)

〇リアリーの団体の結成とほぼ同時期、この地でアンダーグラウンド新聞『オラクル』が発行されるように。ビート系作家も寄稿した。アート・ディレクションを担当したのはMichale Bowen で、彼の独特のアート表現やタイポグラフィックははサイケデリック・アートとして受容された。(39)

〇これらのことを含め、サンフランシスコでLSD文化が花開いたのは1966年だったと言える。しかし、同時期に早くも逆の動きもあり、同年3月、『タイム』誌がLSDの悪影響を特集した。
 ちなみに、当時、唯一の認可製薬メーカーでLSDを作っていたのはSandoz社で、アルコール中毒者への治療薬として作っていたが、これが闇ルートに流れることはなかったので、市内に流通していたのは、密製造の違法LSDだったと考えられる。(40)

〇LSDの発見は1938年のこと。スイスの科学者アルバート・ホフマン。ライムギの麦角菌から合成アルカロイドを作る実験中に発見したもの。1943年にホフマン自身が偶然摂取して心地よい幻覚を見、それをきっかけにホフマンはLSDを精神病治療薬として使用する可能性を探り始めた。そして1947年、サンドウズ社がLSDを精神病治療薬として発売した。(41)

〇1950年代初頭から、アメリカではCIAや軍が助成金を出し、研究機関にLSDやメスカリン、アンフェタミンなどの幻覚作用をもつ薬物の研究を促した。軍事利用の可能性を探るためだった。1965年までにこの種の向精神薬の効用について2000本の論文が書かれていて、研究者の関心はLSDに集中しており、自閉症や分裂症、慢性アルコール中毒の改善などの報告があった。実際、ハリウッドの有名な俳優たち(ケーリー・グラント、ジャック・ニコルソンなど)もLSDによる治療を経験している。(41)

〇この時期のLSD研究では、Oscar Janiger の行った研究がカウンターカルチャーとの関連では重要。UCアーヴァインの教授だったジャニガーは、病気の治療薬としてではなく、LSDが人間の認知と人格を変容させる可能性について関心を持ったのだった。つまり精神異常者への影響ではなく、正常な人間への影響を調べたのである。その結果、彼はLSDが時間感覚を変え、色彩感覚が鋭敏になり、世界との濃密な一体感を作り出すことを発見した。
 つまり、ジャニガーの研究は、LSDの自己啓発的側面、能力開発的側面を強調したのだった。(41-2)

〇戦後アメリカ社会では、精神科医の数が急増。1940年には3000人に満たなかったのに、1956年には15000人の精神科医がいた。ヒッピーたちは上・中流家庭の子弟なので、カウンセリングを受ける(=精神は人為的に管理できる)という感覚は普通に持ち合わせていた。つまり、有名芸能人がLSDを治療薬として使う感覚と、ヒッピーたちがそれを使う感覚は、それほど離れていたわけではなかった。(43)

〇戦後、アメリカではアルコールの消費量も格段に上がっていた。しかも、反体制的態度を演出する道具としてみなされるようになっていた。それはこの時期のアルコール飲料のCMにも明確に表れている。(43)

〇この時期、アルコールを消費していたのは、ヒッピー世代ではなく、その親世代だった。つまり反抗のイメージが大人世代に訴求力があることはその頃から知られていたことになる。だからこそ、カウンターカルチャーが蔓延した1960年代後半、企業はカウンターカルチャーのイメージを意匠として利用するような宣伝戦略をとるようになった。(44)

〇たとえばペプシの宣伝戦略はまさにそんな感じ。コカ・コーラを体制とし、それに反抗する者というイメージで売り出した。(45)

〇1963年はLSD文化の分岐点。この年、サンドウズ社の製造特許が切れ、FDAはLSDの製造・使用を制限するように。

〇その遠因は1962年のサリドマイド禍。精神安定剤だったサリドマイドを服用した妊婦から奇形児が生まれたことで、FDAはLSDを危険視するように。(46)

〇ハックスリーは、LSDは知的・精神的に十分成熟した人が使うべきものだという考えで、無制限なLSDの使用には批判的だったし、ギンズバーグも創作の助けになるという以上の理由はなかった。それに対しリアリーは、そうした選民思想に反対し、LSD体験は宗教体験であって、望む人すべてが平等に享受できるべきものだと考えていた。(46-7)

〇1960年代、大学生数の急増に伴い、大学が事務管理にコンピュータを導入、バークリー校は全国で最初にコンピュータを導入した大学であるが、マリオ・サヴィオなどフリー・スピーチ運動の指導者は、この種の機械化を人間の抑圧とみなし、強固に反対した。(47)

〇1960年代末、カウンターカルチャーと同時に、SDSを中心とするニューレフトと呼ばれる政治革命運動も盛んだったが、こちらの担い手も大学生だった。前者は文化運動、後者は政治運動ではあるが、2つの運動を分けることは難しかった。例えば1967年のヒューマン・ビーインで、メイラーらのスピーチは政治運動であったが、ギンズバーグやスナイダーが唱えたサンスクリット語のマントラは文化的パフォーマンスだった。(48)

〇1966年10月にSFMTのメンバー20人ほどが脱退し、ディッガーズと名乗って独自の活動を始めたが、これはゲリラ・シアター思想が芸術の枠を超え、政治活動となった瞬間でもあった。ディガーズは様々なユートピア的な「フリー・プロジェクト」を行い、経済活動の基本である貨幣を否定した。(58)

〇ディッガーズのフリー活動はヒッピーのコミュニティ形成に一役買った。ヒッピーたちは困窮してディッガーズの炊き出しを利用したのではなく、ここで仲間と出会い、ネットワークを広げるために利用した。そもそもヒッピーたちは、親の支援があったので、経済的に困ってはいなかった。(60-1)

〇しかし1967年のサマー・オブ・ラブ以降、こうした互助的コミュニティは破綻した。(62)

〇YIPは政党とはいえ、その綱領はヴェトナム反戦と経済システムの変革以外、めぼしいものがなく、既存二大政党に対抗するようなものはもってなかった。その意味で、YIPの特異性は、政治思想にあるのではなく、運動のやり方にあった。つまり、ディッガーズの炊き出しがストリートを劇場と見立てたパフォーマンスであったのと同様、YIPは証券取引所でドル札を焼くというような形で、ゲリラ・シアター的パフォーマンスをしたのだった。(63)

〇コミューン・ブームは1967年夏のサマー・オブ・ラブ直後から始まった。共通するのは、小さなコミュニティの建設を通して、高度資本主義体制のアメリカが抱える問題を乗り越えようとする挑戦だった。つまり官僚主義的な組織が人間をコントロールすることへの反対として、経済的にも外部に頼らない方向を目指し、コミューン内部もリーダーを置かず、メンバー全員参加で意思決定する理想的民主主義を実践した。(67)

〇ベイエリア最初のヒッピー・コミューンは1966年春、サンフランシスコ北部に元フォーク歌手ルー・ゴットリーブが作ったモーニング・スター農場。(67)

〇1967年7月に『ライフ』誌が「アメリカにコミューンがやってきた」なる特集記事を掲載。コミューンを経済的豊かさからの逃避、と位置づけ、ヒッピー文化の進化系という捉え方をした。コミューンのヒッピーたちは、もはやロックやLSDには興味を示さず、東洋宗教やネイティヴ・アメリカンの知恵を手掛かりに(つまりカウンターカルチャーからニューエイジへの転換)、工業化が到来する前の生活を疑似体験することで、人間本来の生き方、別種の豊かさを求めようとした。(68-9)

〇『サタデイ・レビュー』誌は1971年にコミューンを論じた記事を掲載。アメリカ34州に2000から3000のコミューンがあると報告。それらは必ずしもヒッピーの若者たちによるものではなく、その他にも16種類のコミューンがあるとした。つまり、コミューン=ヒッピーということではない。(70)

〇1960年代のヒッピーたちは豊かな中・上流階級の子弟であって、経済的に困窮した経験はないが、成長する過程で、アメリカには自分たちとは異なり、経済的に恵まれない階層がいることを知った。それはマイケル・ハリントンの『もう一つのアメリカ』とか、ガルブレイスの『ゆたかな社会』などの本を通じた知識だったかもしれない。そうした経済的格差を知った若者たちは、優越感に浸るのではなく、反対に物質の所有に人生の価値観を合せる中・上流階級的な生き方に疑問を持ち、そのためにコミューンに走った。(71、94)

〇コミューン・ブームのもう一つの要因がエコロジー意識の高まり。1969年、サンタバーバラ沖でのタンカー沈没と原油流出事故、ヴェトナム戦争におけるナパーム弾や枯葉剤による自然の破壊、さらに1962年の『沈黙の春』ブーム、1968年のポール・エーリックの『人口爆弾』ブームなどが、こうした意識の高まりに一役買った。(72-3)

〇エコロジー・ブームの高まりの象徴が、1970年のアース・デイ。毎年4月22日の恒例行事となったこのイベントは、ウィスコンシン州選出の上院議員ゲイロード・ネルソンの発案になるもの。(73)

〇そしてエコロジー・ブームの高まりのなかで注目を集めたのが、ネイティヴ・アメリカンの生き方。1968年の『ドン・ファンの教え』がこれを後押しした。(74)

〇ヒッピーのコミューン・ブームを支えたのが、ブランドの『ホール・アース・カタログ』。(74)

〇しかし、コミューンは長続きしなかった。ほとんどのコミューンは1年未満の短命で終わった。ピラミッド型の抑圧的な組織運営を嫌ったコミューン(それはニューレフトの考え方と同じ)は、そうした意思決定システムを排除したが、それによって意思決定は難しくなってしまった。さらに農業の素人であるメンバーが、自給自足のシステムを維持するのは難しかった。彼らは1971年8月にバークリーにできた有機栽培野菜レストラン「シェ・パニーズ」に習って有機栽培農法を採用したが、それは素人にできるものではなかった。(77-8)

〇例外的に成功したコミューンの一つが、ステファン・ガスキン(サンフランシスコ州立大の民俗学の先生)の「The Farm」というコミューン。ここは適宜農薬を使った農業を営むなど、極端な理想主義に走らず、ある程度は現実に妥協した形で、長続きするコミューンの在り方を探った。(79-80)

〇アメリカにはもともとコミューンを作る伝統がある。(実例あり)。これらのコミューンに共通するのは、資本主義や産業の発展が人間性の喪失につながったとみなす考え方。それを回復するための試みがコミューン建設だった。(81)

〇その中で、カウンターカルチャーとコミューン思想が融合した最初の例が、先にも述べたモーニング・スター農場だった。結局、カウンターカルチャーの本質もまた、人間性の回復、だった。(81-2)

〇コミューンの失敗をもって、コミューンは現実からの逃避に過ぎない、などと決めつけるのは適当ではない。というのも、コミューンが持っていたカウンターカルチャー的側面は、その後、1970年代のニューエイジ思想の中に生き続けるから。ニューエイジもまた、カウンターカルチャーであり、それを引き継いだものだった。(82)

〇ヒッピーたちは、ロックやLSDと言った快楽系のものに関心を示す以外に、それとは対極的な東洋文化にも興味を示した。それは具体的には禅・仏教・瞑想・俳句・ヒンズー教・ヨガといったものだった。ヘイト・アッシュベリーのサイケデリック・ショップではこれらに関連する本や商品を買うことができた。(84)

〇ヒッピーに先だつビート・ジェネレーションもまた、東洋思想への関心を持ち、それを自分たちの作品に取り入れていた。ギンズバーグの作品を見ても、55年ごろから、仏教やヒンズー教に関する単語(スートラとかグルとかマンダラとかカルマとか・・・)が目立つように。ケルアックは俳句形式の詩を書いた。スナイダーはオレゴン州のリード・カレッジで人類学と文学を学んだが、仏教や禅を知ったのは卒業後、バークリーのアジア言語文化専攻に移ってからだった。(85)

〇1959年にアメリカにやってきてTMを伝えたマハリシ・マヘーシュ・ヨギに、ビートルズが影響を受けたことも、このブームに一役買った。(87)

〇またハレ・クリシュナと言う宗教団体が1966年にNYで設立されたのも影響大。街角で「ハレ・クリシュナ」と言うマンダラを唱えるパフォーマンスは人目に立った。スティーヴ・ジョブズも、リード・カレッジ近くにあったハレ・クリシュナ寺院に食事をもらいに出かけて行ったという。(87-8)

〇あとヒッピーたちによく読まれたのがヘルマン・ヘッセ。ヘッセは1946年にノーベル賞を受賞するが、アメリカでは無名で、1962年の『ニューヨーク・タイムズ』の報道でも、無名の作家扱いだった。しかし、カウンターカルチャー世代がヘッセを発見すると、その人気は沸騰。『ステッペンウルフ』『シッダールタ』『東方巡礼』などがよく読まれた。『シッダールタ』は1957年以降、アメリカで100万部売れ、その4分の1は1969年の1年で売れた。また『ステッペンウルフ』は1969年に大手出版社がペーパーバック版を出すと、最初の1か月で36万部が売れた。『イージー・ライダー』のテーマソングを歌ったのも、「ステッペンウルフ」というバンドだった。『ステッペンウルフ』の背景は1920年代のドイツだが、主人公ハラーの考え方は、1960年代を生きるヒッピーたちの考え方と合致した。(88-9)

〇GIビルは1957年に廃止されたが、1960年代に入るとベビー・ブーマ―が大学入学年齢に達した。彼らの親世代は裕福だったので、子弟を容易に大学に送り込めた。1965年に高校卒業者の約半分が大学進学。同年の大学入学者総数は、10年前(1955年)の2倍を超えた。(91)

〇ブランドは指導教授アーリックの問題意識を受け継ぎ、人々の関心を環境問題へ向けるのに貢献した。(93)

〇1960年代の若者にとって、毛沢東は全体主義の権化ではなく、チェ・ゲバラと同様、中国人民を率いる革命のヒーローだった。またチェ・ゲバラの革命は、彼らにとって優美でロマンチックなものだった。(95-6)

〇ラム・ダスの活動自体がそうだが、時代はLSDから禅・瞑想へと移り変わった。東洋の古典はヒッピーの間で人気があり、WECは『易経』や『死者の書』を紹介した。鈴木大拙の本は1920年代から何冊もアメリカで発行されていたので、禅・仏教については戦前からアメリカの知識階級の間では知られていたが、カウンターカルチャーによりより広い層に読まれるようになった。
 またアラン・ワッツの禅の本が1957年に出ると、禅もワッツも有名に。ワッツはジャニガー教授の下、LSDやメスカリンの人体実験に参加した。
 禅やヨガは1970年代に入ってさらに一般化し、自己啓発思想と結びついて、ニューエイジのトレードマークとなった。(97-8)

〇毛沢東やチェ・ゲバラがカルト・ヒーローとなったように、カウンターカルチャー世代が受け入れた東洋思想は、あくまでも自国を相対化するための思想的ツールであり、記号・イメージとしての東洋であった。東洋はヒッピーたちにとって、ユートピア的想像力の源泉だった。(99)

〇『イージー・ライダー』が公開されたのは1969年。すなわちカウンターカルチャーが下火になった後の作品であり、その意味で、この映画はカウンターカルチャー賛歌ではなく、むしろそれに対するノスタルジアの映画であった。(104-5)

〇『イージー・ライダー』『真夜中のカウボーイ』『卒業』『俺たちに明日はない』などのインディペンデント映画の「インディペンデント」と言う用語は、カウンターカルチャーを表すのにふさわしい単語だった。つまり、適度にあいまい、適度に反抗的、という意味で、カウンターカルチャーの本質をよく表していた。(114)

〇インディペンデント映画が成功した背景には、「リベラルな保守」ともいうべき政治文化的態度が当時のアメリカ人の間に広まっていたから。対抗文化を拒絶はしないが、しかし最終的には保守的な社会的力学が勝利する、というストーリーによって両者のバランスを取っていた。(115)

〇ニュー・ジャーナリズムという用語が定着したのは1970年代。生みの親はトム・ウルフ。定義は「小説のように読めるが小説ではなく、事実を元に書かれているが、それ以上のものを求めて書かれており、ルポルタージュと同じように信頼できる」。(117)

〇メイラーは1957年の「ホワイト・ニグロ」において、早くからヒッピーの登場を予言していた。白人中流階級は、社会的・物質的に恩恵を享受してきた分、人間の本質的な喜びや興奮といった実存的な意義を見つけられなくなっていて、だからこそ黒人のジャズが表すような即興性や快楽追及的な傾向を持つものに惹かれると指摘、カウンターカルチャーが体制批判として有効であることを予言していた。(131)

〇コンピュータは科学の進歩の象徴であり、またテクノクラートの支配・管理の象徴でもあったが、同時に個人がコンピュータを持つことは、支配階級に対抗する武器となる、という風にも考えられた。そこで個人が持つコンピュータという考え方が発生し、それは1960年代後半から1970年代前半に青春期をすごしたコンピュータ・ヒッピーたちの夢となった。(138-9)

〇つまり、カウンターカルチャーは、反権力的文化運動という側面はもちろん持つものの、それと矛盾するように、権力やアメリカの主流となる価値観との親和性も持ち合わせていた。だからこそ、カウンターカルチャー最大の遺産はシリコン・バレーだという言い方もできる。(140)

〇ARCやPARCの研究者たちは、コンピュータを人間の能力を増大させるものであり、コミュニケーションのツールとして有益だと考えた。ネットを通じて、彼らは濃密なコミュニティを形成した。そもそもARCのAは augment のAであり、人間の思考能力の増大を目指してつけられたものだった。(143)

〇コンピュータ・ヒッピーたちは、テクノロジー至上主義、実益重視、反権力的姿勢の3つの側面を合せ持った連中であり、科学技術・コンピュータテクノロジーは美を創造し、人間の生をより良いモノにするという考え方を持っていた。個人の能力拡大を目指したカウンターカルチャーと、その後のニューエイジ時代の申し子らしく、彼らはコンピュータを、ロック、LSD、瞑想、ヨガ、自己啓発セミナーと同様のものとして受け入れていた。(144-5)

〇ガレージで1975年に生まれた初のパソコン、「Altair」は、郵便で注文できたので、WECにも掲載され、発売1か月で数千台が売れた。(147-8)

〇カリフォルニアにシリコン・バレーが生まれたのは、当時の知事Jerry Brown がカウンターカルチャーに共鳴した稀有な政治家だったから。彼はブランドを環境政策顧問に招いたほか、風力発電や太陽発電、有機農業などの実験に取り組んだ。ハイテク産業の育成にも熱心で、コンピュータ関連事業の誘致に積極的に動いた。(148)

〇1970年代のコンピュータ・プログラマーたちは、自分の作ったソフトを無料で公開し、他人からの改善を受け入れるなど、お金を稼ぐこと以外のことに熱心だった。つまり、フリーという考え方を重視し、有用なものを金銭交換で他人に与えるのは、資本主義の毒に侵された者がすることだという清貧思想を持っていた。(149)

〇Michael Hart が1971年の独立記念日に、アメリカ独立宣言のビラをネット上に流したことから始まった「プロジェクト・グーテンベルグ」も、フリー精神の端的な顕れと言える。(150-1)

〇ヒッピー文化は、ネットワークやPCの可能性に、カウンターカルチャー的な意義を付与した。それは、個人の能力を増大させることにより、社会全体の改良につなげようとする思想。大企業や大学だけが所有していたコンピュータを小型化して個人が持てるものにしようという発想は、一部エリート集団がアメリカ社会を牛耳るという状況に対する反感から生まれたものであった。そして彼らの理想は1970年代の終わりに実現した。その頃は、既にカウンターカルチャーが終わって10年が経過していたが、PCの歴史はカウンターカルチャー的であった。それは人間の能力を増大させるテクノロジーへの信頼と、支配者階級への反感の両面を持っていた。(153)

〇ウッドストックまでは良かったものの、アルタモントの悲劇やチャールズ・マンソン事件の実態が明らかになるにつれ、またウェザー・アンダーグラウンドのような暴力的な共産主義集団が登場するにつれ、アメリカ人一般は、もはやヒッピーを風変りではあるが、平和的志向を持った人々と言う風には見なくなってしまった。(157-9)

〇それに追い打ちをかけたのが、ケント州立大学反戦デモやジャクソン州立大学の人種差別悲劇。ハーバードやバークレーやスタンフォードの場合と違い、ごく普通の田舎大学でこういうことが起こると、アメリカ政府とカウンターカルチャーの断絶が明らかなものとなった。(159-60)

〇1973年のオイルショックを機に、戦後のアメリカの好景気は終わりを告げる。このころのアメリカのベストセラーはポーツ・アーリックの『豊かさの終わり』とか、ローマ・クラブの『成長の限界』など、終わりの感覚を伝えるものばかり。さらに、エリザベス・キューブラー・ロスの臨死体験もののヒットによって、アメリカ人は個人の死(終わり)についても敏感になった。そして、カウンターカルチャーの終焉も、このころ、盛んに言われるようになった。(161)

〇実際、1970年代半ばごろには、もはやカウンターカルチャーという言い方はされなくなり、若い世代の独自のライフスタイルは「ニューエイジ」と呼ばれるように。ニューエイジはカウンターカルチャーが提起した問題意識を継承しつつ、東洋宗教や瞑想による全体性の回復を目指した。その象徴的存在がエサレン研究所であった。(163)

〇カウンターカルチャーからニューエイジへの移り変わりを象徴する人物がラム・ダス。(163)

〇1974年には、ニューエイジ系雑誌が相次いで創刊された。例えば『ニューエイジ・ジャーナル』や、マリリン・ファーガソンの『脳と心の雑誌』、それからブランドの『季刊コ・エボリューション』など。これらの雑誌の購読者には研究者が多く、知的な側面を持つ対抗文化だった。(163)

〇カウンターカルチャーには本質的な矛盾があった。ヒッピーの誕生を可能にしたのは、アメリカの好景気とベビーブーム、大量生産・大量消費社会の到来などであって、ヒッピーが反旗を翻した権力構造こそ、ヒッピーの母体であった。
 またヒッピーはベトナム反戦運動を繰り広げたが、裕福な家庭に育ち、大学に行くことで徴兵制を免除されていたヒッピーが反戦を唱え、彼らほど恵まれない家庭に育った若者が、実際にベトナムに行っていたということも、大きな矛盾と言えた。(164)

〇カウンターカルチャーが新しかった点は2つ。一つは大学生を中心に展開された運動であったこと。アメリカ史上のこれまでの社会運動・文化運動は、自立した成人によって行われたのであって、その点、カウンターカルチャーはアメリカ史上初めての特色を持った運動だった。
 またもう一つの特徴は、カウンターカルチャーの成果が商業主義の形をとって拡散したこと。ベビーブーマーであることにより、人口動態的に見て大きな力を持っていた彼ら世代が作り出したカウンターカルチャー商品は、産業の観点から見て魅力的だった(例えばロック音楽の流行は、音楽業界を潤した)。アメリカ文化全般に言えることではあるが、カウンタカルチャーが生み出したものは、お金で買えるものだった。すなわち、カウンターカルチャーは、ヒッピーたちと文化産業による共同作業だった、と言うことも言える。(165-6)

〇その意味で、カウンタカルチャーはアメリカの権力体系の中枢である資本主義システムの中に自領域を買う特することに成功したのだった。反権力でありながら、実は権力と親和性を持っていた。いわば「権力の中の反権力」という位置づけだった。(166)

〇これをヒッピーたちの現実感覚と呼ぶならば、それを他の世代にも理解できるように解説したのが、チャールズ・ライクの『緑色革命』だった。(167)

〇カウンターカルチャーは、一般的な印象ほどラディカルではなかった。従ってカウンターカルチャー=反体制と考えてしまうと、その本質を見失うことになる。カウンターカルチャーは、体制内で自分たちの文化領域を確立するプロセスだった。結局、ヒッピーたちもまた大量消費社会の申し子であり、消費の中に自らの存在意義を見出さざるをえなかった。(167)

〇ビート・ジェネレーションという言葉が最初に登場したのは、1952年11月16日付『ニューヨーク・タイムズ』に、小説家ジョン・クレロン・ホームズが寄稿した「This is the Beat Generation」という記事の中。ただし、それは『オン・ザ・ロード』や『吠える』以前のことであり、ホームズが語ったビートとは、ケルアックたちのことではなく、サイレント・ジェネレーションと呼ばれた若い世代が共通して抱いていた社会に対する概念を語ったものだった。(177)

〇1961年3月3日号の『ライフ』は、ロスのコンピュータ・プログラマーが、ごく限られた英文法とビート詩人がよく使う500語の語彙で、ビート詩を作成するソフトを作ったと発表。(178)

〇ビート・ジェネレーションは最初、揶揄の対象とされたが、『ライフ』1959年11月30日号は、もっと真摯なビート分析をしていた。それによると、ビートたちはマッカーシズムや朝鮮戦争、冷戦構造にノーを突きつけた連中であり、アメリカに長い伝統を持つボヘミアンの伝統や、ダダイズムやニヒリズムの伝統を担いつつ、こうした過去の連中が大衆から無視されたのとは異なり、大衆の耳目を集めた初めてのケースであると論じていた。また1958年8月19日の『ルック』も、数は少数ながら、ビートの人気はすさまじいと報告していた。(181)

〇つまりビート・ジェネレーションは、セレブリティだったのである。ケルアックやギンズバーグの文学は、それ自体にももちろん価値があるとしても、それ以上に彼らの存在自体が世間の耳目を集めたという意味で、セレブだった。(181)

〇ブァースティンによれば、セレブはヒーローとは違う。ヒーローは自らの業績によってヒーローになるが、セレブはメディアによって作られる。同様にケルアックは、『路上』の作者としての業績は別として、ビートニク現象のアイコンとしてはメディアの産物だった。それは大衆自身によって望まれて作り出されるイメージだった。(182)

〇ビートニクとして揶揄されながらも、ビートニク的な生き方に共感する人々の存在がメディアを通じて拡散していったのは、時代的状況に対する反抗的態度の大衆化として理解できる。戦後のアメリカを支配した中流階級的価値観に対する疎外感のようなものを、メディアがビート作家たちを通して、「反抗」としてメディア商品化した。(183)

〇リースマンの『孤独な群衆』その他、1950年代のベストセラーは、社会が個人にますます重くのしかかり、没個性化していることをアメリカ大衆に説いた。つまり大学の研究者も、ビート作家たちも、表現方法こそ違え、同じ問題意識を共有していた。(183)

〇活字メディアだけでなく、テレビも中流階級アメリカ人に訴求できるイメージとしてビートニクを利用した。例えばCBSが1960年に放映開始した『ルート66』は、2人の白人男性がシヴォレー・コルベットでアメリカを旅するドラマだが、人物設定を見ると、中流階級育ちで人生の目的が定まらないトッドと、孤児院出身のバズが主役を演じていて、これはまさしく『オン・ザ・ロード』そのままと言っていい。(183)

〇文学運動として登場したビートが、社会に対する「反抗」という意味を付与され、テレビや映画や音楽などの文化商品がそのイメージを利用するという過程は、戦後アメリカのポピュラー・カルチャーにおいて、「反抗」をメッセージとした文化商品の先駆けと言っていい。これはアメリカ大衆が、自己認識をする上で、ビートの反抗のイメージを利用したことを意味する。(184)

〇反抗がメッセージとして影響力を持つ傾向は1960年代に入っても続き、その典型的な顕れがカウンターカルチャーだった。またカウンターカルチャーは、メディア・イベントとしての要素も強かったが、それはビート現象にはあまり見られなかったことである。(つまりビートはメディアに利用され、ヒッピーはメディアを利用した、ということか・・・)(190)

〇実際、ビートニクたちと10年の差があるヒッピーたちは、テレビで育った世代であり、メディアの利用法を心得ていた。サンフランシスコ・マイム・トループやYIPは、自分たちの身体の延長としてメディアを利用した。(190)

〇ドワイト・マクドナルドと言う評論家は、中流階級の文化をマス・カルチャーと呼び、体制迎合的であることを揶揄したが、ビートの反体制的なイメージは、その中流階級によって受け入れられた。すなわち、迎合と反抗という矛盾する二つの要素を併せ持った最初の文化現象がビートだった。つまりビートはポピュラーカルチャーを批判する形をもったポピュラーカルチャーだった。
 そしてその矛盾の内包を受け継いだのが、カウンターカルチャーだった。(191)


 とまあ、ざっとこんなところかな?

 まあ、内容盛り沢山、しかも非常に鋭い分析があり、興味深い事実の提示もあって、私の研究からしたら有用この上ない資料でありました。

 一つ、難点を挙げるとするならば、その記述法ですな。

 だって、内容がこれだけ面白いのに、書き方は教科書そのもの。これでは、読者を限定してしまいますわ。こんな教科書みたいな本にしないで、面白く書けば、もっともっと面白い本になったのに。

 その点が非常に惜しいですが、もっとも竹林氏に面白く書かれてしまったら、この先、私の出る幕がなくなるわけで、今の状態をこれ幸いと、私が面白い本を書いて進ぜましょう。

 とにかく、カウンターカルチャーに興味のある方には必読の本として、教授のおすすめ!と言っておきましょう。

これこれ!
 ↓

カウンターカルチャーのアメリカ 第2版 希望と失望の1960年代 [ 竹林 修一 ]





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Last updated  August 1, 2020 05:26:25 PM
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nwo69@ Re:野崎訳 vs 村上訳 さて軍配はどちらに?!(12/30) 非常に激しく同意、しかも美味しい翻訳を…
釈迦楽@ Re[1]:母を喪う(10/21) ゆりさんへ  ありがとうございます。今…
ゆりんいたりあ@ Re:母を喪う(10/21) 季節の変わり目はなんだか亡くなる方が 多…
がいと@ Re[2]:山田稔著『もういいか』を読みつつ、日本の郵便システムを憂える(10/10) 釈迦楽さんへ 収支上の都合があるにして…
釈迦楽@ Re[5]:20世紀最大の奇跡とはなにか?(10/08) がいとさんへ  ふふん、とりあえず昨日…

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