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テーマ:今日の出来事(289580)
カテゴリ:教授の追悼記
元愛知教育大学学長・田原賢一先生がご逝去されました。享年81。
田原先生は現在の国立大学法人が、まだ国立大学だった頃の最後の愛知教育大学の学長でした。 当時の国立大学なんてのは、実にこの、ノンビリしたものでありまして。大学の仕事なんて毎年、ほとんど変わらないルーティーン・ワークばかり。要は何もしなくても毎年決まった額の・・・ということはつまりふんだんな・・・予算がもらえて、十年一日の運営をしていれば良かったので、学長の仕事も楽だったと思います。 楽な分、事務仕事に長けていなくても学長が務まったんですな。当時の学長の仕事というのは、要するに大学の顔になるということだけ。だからアカデミックな業績のある、そして人格面でも優れた学者が、教授会の推薦で学長に選ばれていた。田原賢一先生は、そういう時代の最後の学長でありました。 実際、田原先生は、数学者として立派な業績をお持ちで、しかし、決して偉ぶることもなく、会議で声を荒らげることもなく、まるで古き良き日本の田舎の人望ある村長さんみたいな感じで、鷹揚にニコニコされているような学長さんでした。 ただ、当時は学内の決まり事はすべて教授会での厳しい議を経てから決まっていたので、毎月の教授会での討論は実に激しいもので、8時間、9時間ぶっ通しの議論もざら、学内派閥や学科同士の権力争いの場ともなり、その討論のかじ取りを任されている学長は、なかなか大変だったと思います。 それでも、すべては教授会決定で決まっていましたから、決まったことに関しては「議論はし尽くした」というところがあり、誰もが納得して従っていた。その意味で実に実に民主的な運営がなされていたと言えましょう。 しかし、大学法人になってからは、文科省の指示で教授会が完全に形骸化し、学長は教授会の議を経なくてもなんでも決められるようになったので、ものごとは勝手に上の方からのお達しで決められることになってしまった。教授たちは大学運営そのものに興味を失い、大学がどうなろうと知ったことではない、という感じ。運命共同体であるという意識も無くなり、愛校心も無くなりました。教授会も、年に数回程度、形式的に行われるだけで、実態は上からの報告会に過ぎず、議論というものは一切なされないようになりました。 今、東大や筑波大、さらには旭川医科大などで、学長をめぐる様々な問題が生じていますが、これらもすべて同根の問題であります。 国立大学がダメになったのは、すべて法人化のせい。今後、日本の国立大はどんどんレベルが下がると思いますが、それも全部、法人化のせい。それが分かっているのに、誰も元に戻そうとしないところに、この国の限界が良く表れております。森さんを辞任させられないのと一緒。 まあ、そんな愚痴はおくとしましょう。 とにかく、田原賢一先生は、国立大が国立大であった頃の最後の学長として、立派に大学の顔を務められた。 ちなみに、田原先生は決して大酒飲みではありませんでしたが、熱い紅茶に一滴、風味付けにほんの一滴だけウイスキーを入れたウイスキー・ティーがお好きで、学長室を訪れる人がいると、たまにそれを振る舞って下さったものでございます。いい時代でした。 学長の任期を全うされ、引退されてからは、郷里の兵庫県にお戻りになられたようで、「丹波の黒豆で有名なところなんだよ」と伺ったことがありますが、晩年はそういうところで、ノンビリと穏やかな日々を過ごされたのでしょうか。 まだ国立大学が国立大学らしかった時代の最後の学長として、田原先生の優しい笑顔を思い出しながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 6, 2021 02:27:25 PM
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