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釈迦楽

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October 15, 2021
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カテゴリ:教授の読書日記
海野弘著『世紀末シンドローム ニューエイジの光と影』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。

 海野弘さんという人、元は平凡社の編集者で、アール・ヌーヴォーの紹介者として有名。著書も多く、テーマ的に私と関心の近いところに居る人ですが、いかんせん、研究者ではないんだなあ。だもので、色々と資料を読まれているし、時に鋭い考察も見せてくれるんですけど、本全体として何が言いたかったのか漠然としてしまうところがある。あっちの資料から引き、こっちの資料から引き、面白いでしょ、で終わってしまうというか。

 ということで、アメリカのニューエイジ現象についての解説書として、この本はとても面白くはあるのですが、一つのストーリーとしてまとまっていないので、こちらとしてはつまみ食い的に面白い個所をピックアップしていくような読み方しかできないところがある。ということで、以下、私個人として興味のあった個所を箇条書き風に集めていきますが、私の仕事に必要な箇所を自分の都合で取り上げているだけなので、他の方が読んで面白いかどうかは不明です。


〇「ニューエイジ運動は、トランスフォーメーション(変容)を第一義的な体験としているのが特徴である。ニューエイジャーは、古い、受け入れがたい生活から新しいエクサイティングな未来への変身を熱心に求め、体験しようとするのである。そのような変身の最も顕著なモデルはヒーリングである」(20)

〇「〈潜在能力〉もニューエイジのキーワードである。人間は無限の能力を持っている。だがポテンシャルであるから、それを開発して、変身しよう、というわけだ」(21)

〇「すべてのものは全体のなかで生きている。知識もまた、ばらばらではなく、全体のなかに組織化されていなければならない。ニューエイジャーはこのような全体的な知識欲に憑かれている。この知識欲は、彼らが非常に本好きであることにつながっている。(中略) ニューエイジャーがぶっキッシュであるのは、本というメディアがニューエイジのネットワークを広げるのに向いているからなのだろう。ブック・ショップがコミュニティー・センターとなっていることが多い」(23)

〇「ニューエイジは人間を肉体、精神、霊の三種のものとして考える。それは、肉体と精神という有限の人間を超える永遠の霊を信じることである。八六九年のコンスタンチノープルで開かれた第八回キリスト教会議で、不死の霊的存在について語ることは異端とされ、人間は肉体と精神から成る二元的なものとされた。霊的なものは有限な精神に付随するものとなり、神性を否定されてしまった。超感覚知覚(ESP)を否定し、人間を物質的、肉体的麺からとらえる近代科学の支配に対して、ニューエイジは霊的な目覚めを語ろうとするのである」「霊とか霊魂といったことばには、アレルギーを感じる人も多いだろう。〈ニューエイジ〉というと、新宗教、カルトといったイメージが浮かび、拒否反応を示す人もいる。それに対してトレベリアンは、ニューエイジを宗教の復活や宗教運動ではなく、意識の変革であると述べている。」(45)

 ↑ここは、今回本書を読んで一番ためになったところ。西欧社会では伝統的に肉体と精神を切り離して考える二元論が主流なのに、その一方で、臨死体験とか生まれ変わりといった話題になると、霊魂の存在を否定することが多いのはなぜだろうと思っていたのですが、彼らは「精神」と「霊魂」は別物だと考えていたわけね。つまり「肉体」と「精神」は厳密に分別するけれど、その二つが一緒になって「人」を構成するのであって、だから人は死ぬと肉体も精神の両方が一緒に無になり、それとは別に霊魂が残るとは考えない(ことにした)わけですな。

〇スーザン・ボードによると、1970年代まではダイエットの標的は余分な体重だけだったが、80年代に入ると、ふくらんだもの、たるんだもの、突出した部分が攻撃されるようになった。なぜ、突出した部分を嫌うようになったかというと、人間の突出した部分(それは女性的な部分でもある)に悪霊・怪物が住み着くというオカルト的な感覚があったため。ゆえに、映画でも『フライ』のように、人間の体から魔物が出てくる系の映画が80年代には盛んに作られた。でっぱりの少ない、スリムな体が理想となった。(62-70)

〇レイチェル・スウィフトによると、80年代に現れたダイエット法は3万種以上。(80)

〇「ヘルマン・ヘッセやカレル・チャペックの庭仕事の本が不思議なほど売れている。これもまた、ニューエイジ・シンドロームの一つと考えることができる。庭いじりという自然との対話が人間の癒しとなっているのだ」(126)

〇「ともにアンチ・モダニズムであるとしても、ポストモダンとニューエイジ/エコロジーは対照的である。たとえば、ポストモダンは、ジャン=フランソワ・リオタールが言ったように、大きな物語が解体した、と考えている。これに対し、ニューエイジは自己実現の大きな物語を語ろうとするのだ。ケン・ウィルバーはその代表である」(170)
 「大まかにいうと、八〇年代は、フランスを領地とするポストモダンの時代のように見えた。そのキーワードは、デコンストラクションであり、〈逃走〉である。大いなる物語を解体し、終焉に逸走することが鮮やかに見えた。/その現象の典型であったのが、浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』である。無方向に、蜘蛛の子を散らすように逃走してゆくことの爽快さが語られているが、今読むと妙になつかしい。しかし、フランス風逃走と解体のパフォーマンスもいつしかあきられてきて、物語を読みたいな、とか、全体を知りたいな、といった潜在的願望が広がり、ポストモダンの終りなき逃亡の下にできた大きな空白にするりとすべりこんでいったのではないだろうか」(178)

 ↑この指摘もなかなか面白い。確かに、ニューエイジ(あるいは自己啓発思想全体)は、人間を、スペースの上でも、また時間軸の上でも、より大きな枠組みの中に位置づけ直そうとする試みという風に言える。つまり、今生だけでなく前世や死後の世界の中で考えるとか、個人としてではなく宇宙の一部として捉えるとか。

〇ゴードン・メルトンによるニューエイジ年表が、本書185ページから194ページまであり、整理に役立つ。

〇「フリッツ・パールズが開発したゲシュタルト・セラピーは、人はものごとを孤立した要素として知覚するのではなく、知覚のプロセスのなかで意味をもった全体に組織するという仮説に基づいている。体験を統合し、環境と調和した形で自らを実現するという、ホリスティックなゲシュタルトの完了が目指される。クライアントの体験を解放し、全体との調和をもたらすために、心理的アプローチに微ディーワークを加える」(227)

 ↑パールズのセラピーがなぜ「ゲシュタルト」という名前を冠するのか、その理由がこの説明からよく分かる。

〇「身心の全面的解放のための最も強力な方法はサイケデリックスの使用である。しかし、LSDが規制されたので、グロフと妻のクリスティーナは、「酸素過多、誘導的音楽、ボディワークを取り交ぜて、速く深い呼吸によって、比較的短時間の間に驚くほど強烈な体験を生むセラピーを開発した(カプラ前掲書)」(228)

 ↑要するに60年代にLSDの時代が終わった後、その代替物として考案されたのが、各種ボディワーク(あるいはヨガとか瞑想)ということになろうか。

〇「ニューエイジのあいまいな、オカルト的部分を排除し、トランスパーソナル心理学を明確に理論づけようとしているのがケン・ウィルバーである。すでにとりあげた『トランスパーソナル・ヴィジョン』第一号に訳された「ベビーブーマー・ナルシシズム・ニューエイジ」というインタビューで、いわゆる〈ニューエイジ〉とはっきり一線を画そうとしている。」(231)

 ↑このインタビューは使えそうなので、一読の価値はあるかも。

〇「ニューエイジは、ベビーブーマー、つまり六〇年代世代の産物である、とウィルバーは言う。その特長はナルシシズムでありミーイズムである。ベトナム戦争が終わると、彼らは反戦運動を捨てて、ヤッピーに転じる。(中略)ウィルバーは、六〇年代とヤッピーからニューエイジが発生したとする。これは、ニューエイジの社会学的研究に沿っている。彼はニューエイジの本質をナルシシズムと即時的満足のセットと見る。そこには四つの真理の種子が投げ込まれている。まず東洋宗教である。鈴木大拙の禅などが中心である。真理の種子というのは、それ自体、真理であり、正しい方向を潜在的に含んでいるのであるが、しばしば、誤用され、悪用されてしまう。東洋宗教や神秘主義もナルシスティックな目的に御用される。ジャック・ケルアックたちの〈ダルマ・バム〉がそれだという。六〇年代に東洋宗教はカフェテリア・モデルとして商品化されてしまった。
 第二の真理の種子は「グローバルな進化」である。これも確かに起こりつつある変容ではあるが、未だ物質的なもので、心的ないし霊的なものではない。それを霊的変容であるととりちがえて、安易な終末論が唱えられている。
 第三は「パラダイム」である。これは知覚と認識を支配する超理論である。ニューエイジャーはパラダイム・シフトにより、即時的満足、即時的変換、地球的変換が今すぐはじまると考えている。
 第四は「サイケデリックス」である。これによって、短時間に魂の変化をもたらし、霊的なものを垣間見るかもしれない。
 以上の四つの要素を勝手に組合わせて、今、世界に大きな変容が到来し、それはグローバルな霊性を含み、新しいホリスティックなパラダイムを包括している、という推論が導かれる。重要なのは、「このわたし」がそこに加わっているというナルシシズムである」(232-3)

〇「ニューエイジの一つの柱であったのは、近未来に霊的な革命が到来し、〈ニューエイジ〉が始まるという思想であった。その一つの期限は、紀元二〇〇〇年というミレニアム(千年紀)であり、今まさにその前夜と考えられる。
 しかし、すでにのべたように、ケン・ウィルバーは近未来の大いなる変容をはっきり否定し、ニューエイジャー的あいまいさから、トランスパーソナル心理学を区別しようとしている。これは、「ニューエイジは八〇年代に終わったとする見方につながるだろう。
 一九八七年の〈ハーモニック・コンヴァージェンス〉はニューエイジのピークであった。ニューエイジャーは、霊的革命の到来を待ち受けたが、なにも起こらなかった。ここでブームがさめてしまったというのである」(244)

〇「そして、いよいよニューエイジの終末論である。その代表としてとりあげられるのは、パリのデザイナーであり、ニューエイジのグルとしても有名なパコ・ラヴァンヌである。ファッションとニューエイジというのも興味深い取合わせである。パコの考えは次のようにまとめられる。/『第二のキリスト教の千年紀の終りに、人間は、おどろくべき変容、これまでの人間の体験のすべてが、ほんの準備でしかなかったような変容にさしかかる。(中略)しかし、その変容においておそろしい混乱を地球は体験し、人類の生存もあやういかもしれない。それまでにない規模の台風、地震、火山の爆発がきたらひどいことになる。地球生命体ガイアは、彼女に与えられた損害に復讐を企てる。われわれは1999年に近づくにつれ、アンチキリストの支配に入ろうとしている。その数は反転し、ひっくりかえせば6661となり、野獣を示す数と聖なる一者を意味するのだ。来るべきアポカリプスは、すぐれた種の進化を記しづける浄化体験となるだろう。ホモ・サピエンスはホモ・スピリチュアリスになるのだ』。パコは六〇年代に、メタリックな宇宙ファッションで世界をおどろかしたが、それはニューエイジの予告だったわけである。/パコ・ラヴァンヌによって示されたように、一九九〇年代には、ニューエイジはファッション化した、といえるかもしれない。SFと神秘主義が結び付けられ、ポピュラー文化に登場したのである。」(246-9)

 ↑パコ・ラヴァンヌがそういう人だったとは、ちょっと驚きだ。

〇「ニューエイジはあらゆる束の間の流行現象のごった煮であり、とりとめない。クリスタルやチャネリングの流行は、このところ〈ネイティヴ・アメリカンの知恵〉の流行に移りつつある。/「しかし共通分母は存在する。簡単にいうと、ニューエイジはアポカリプティックであり、終末を信じているのだ。」(トンプソン、前掲書)/それは、私的・個人的変容に熱中しているのであるが、究極的には〈全体〉を目指し、地球の救済が目指される。トンプソンは、オカルト、東洋、マヤなどからの借用にもかかわらず、ニューエイジの本質は、アポカリプティシズムであると見ている。やがて審きの日が来て、古い世界は滅亡し、選ばれた、目覚めた人々による新しい世界が始まるのだ」(250)

〇しかし、ファンダメンタリストもニューエイジも、結局はアウトサイダーの宗教であって、メインストリームにはなり得ない、とトンプソンは言う。これらの思想は、既成の宗教や思想を全否定するか、それらすべての統一を主張する。西欧世界では、一つの宗教による支配はない。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム、仏教などが共存し、形而上学、哲学、科学も共存している。互いのちがいが尊重されているのである。これらの境界をこわそうとするのは、知性への侮辱と考えられる。/アポカリプティシズムは、知性への全面的侵害と見ることができるだろう。トンプソンは、一般社会、明るい知性から拒否された暗黒の知の流れる地下の川、それが流れ込む闇の湖のようなものを考えている。それを社会学の用語で〈カルティック・ミリュー〉(カルトの環境、カルトの湖)と彼は呼ぶ。ニューエイジが呑み込んでいる雑多な要素を〈カルトの湖〉としてくくるのである。社会から拒否された、あらゆる雑多で異質なものがここに流れ込んでくる。そして、互いに異質でありながら、ここでは一緒に混ざりあい、区別しがたくなる。」(254)

〇しかし、別なレヴェルでは、ニューエイジはより過激な形をとってあらわれている。トンプソンがあげているのは、オウム真理教の事件とスイス、カナダにおける太陽寺院の事件である。オウム真理教については、彼はこの本の別の一章でくわしくのべているが、まず、ニューエイジの運動として位置付けていることが重要である。(255)

〇もちろんノストラダムス本は前からあったが、大出版社がまともに取組むことはなかったし、今ほど多くの著者がポピュラー・ヒストリーやポピュラー・サイエンスの本に、アポカリプティックな要素をしのばせることはなかった。しかし、一九九五年に出たグラハム・ハンコックの『神々の指紋』は一挙にベストセラーのチップになった。これは日本においてもそうであった。(中略)/人々はハンコックの本を買って、その説をそのまま受けとるわけではない。しかしまったく意味もなく買うのではなく、既成の、レールが敷かれた世界とその科学や歴史に不満があり、オルタナティヴな解釈を求めて、ハンコックを買うのだ。オーソドックスで、ゆっくりとした変化ではなく、アポカリプティックな、一挙の変化を人々は欲しがっている。その欲求不満が、世紀末現象としてのニューエイジを呼び出しているのである。(256-7)

 ↑このあたり、ニューエイジの底流に、やはりドロップアウトしたヒッピーのメンタリティが流れていることを指摘しており、その連続性に気づかせてくれる。

〇ではなぜ、人間はアポカリプスの幻想を抱きつづけるのだろうか。それは人間が死すべき存在であり、避けがたい死への不安を感じているからだ、とトンプソンは言う。紀元二〇〇〇年が迫っている。いずれにしてもそれは、私たちがそこで死すべき世紀である。(258)

 ↑これも鋭い指摘。死への恐怖とその焦りからアポカリプスは、そしてニューエイジは始まる。だから、ニューエイジの考察の後で、死の恐怖に対する自己啓発思想を考えなければならない。


 ・・・とまあ、こんな感じかな?

 あらためて振り返って見ると、(他者からの引用が多いとはいえ)、私自身の研究にとって必要な情報が結構あったことが分かります。そういう意味で、私にとっては、大いに参考になる本でした。



これこれ!
 ↓

世紀末シンドローム ニューエイジの光と闇 [ 海野弘 ]





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Last updated  October 15, 2021 06:47:39 PM
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