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郡山の長者伝説
郡山には、何人かの長者伝説が残されています。特に有名なのは虎丸長者です。伝説ですから本当にそこに住んでいたとは言えませんが、今も郡山の中心部に、虎丸町、長者などの地名があるのです。 虎丸長者の伝説は、『昔、八幡太郎義家が後三年の役の際、長者宮というところにさしかかりました。ところが夕刻、ものすごい大雨になったので、義家は虎丸長者に一晩の宿を頼んだのですが、長者は義家の申し出を断わってしまったのです。仕方なく義家は、北方の仮宿というところで一夜の宿をとったのですが、このまま喧嘩別れにしておいては不味いと思い、虎丸長者に妥協策を提案したのです。しかし虎丸長者は、反抗的姿勢を隠さなかったので、義家は虎丸長者屋敷に向けて火矢を射掛けたのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にある』という木の板が掲げられたと伝えられています。恐らくこれは、虎丸長者が蝦夷征伐の軍勢への協力依頼を拒否したであろうとすることが伝説化したものと思われます。 東和町史にも、虎丸長者の伝説が載せられています。しかし現実に、二本松市杉田字長者宮から発掘された建物跡から、炭化米が出土しているのです。そして、『ここは虎丸長者の館跡で、そこにあった米倉が焼かれてしまった』という伝説になっているのですが、ここで出土した炭化米は、火災のため焼かれて炭化したものと考えられています。なお借宿という地名が長者宮の近くにあり、郡山の伝説との繋がりが感じられます。 大槻町には花輪長者の伝説が残されています。平泉に逃れた義経に会うための長旅の途中で供の小六を失って困り果てている静御前たちを、花輪長者がお世話をしたと言われています。しかも大槻町には、『花輪』『花輪前』などの地名や、南川に架かる『花輪橋』など花輪長者に由来する地名などが残されています。 逢瀬町には、中丸長者の伝説が残されています。この名に関しての地名はありませんが、その場所が今の浄土松公園であるというのです、それは日本のカッパドキアと言われるキノコ岩が林立する公園かその周辺に住んでいたとされています。 大満長者が岩城国赤津村に住んでいた、とあります。しかし赤津村が現在の湖南町赤津であるとすれば、岩代国が正しいことになります。ただし岩城国(磐州(ばんしゅう))と岩代国(岩州(がんしゅう)は、明治元年(1869)になって陸奥国より分立していることから、この伝説は、明治に入ってから作られたものかも知れません。 ブログランキングです。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.01.16 09:39:19
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