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2024.04.20
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新府城は釜無川とそれから分岐した塩川に囲まれた台地上にある。この七里岩台地は、釜無川側は断崖となっており、反対側には七理岩ラインの道路と迂回したJR中央線が通っている。
<地図>
新府城は、八ヶ岳南麓から甲府盆地に向かって南東方向に楔形に伸びた七里岩台地上の南西端に立地する「西の森」と呼ばれた小円頂丘上に占地する。標高は524mで、城の西側は釜無川が流れ、川によって浸食された比高129mの断崖となっており自然の要害をなす。城址西側の崖下には祖母石の集落が形成され旧甲州街道が通り、東側台地上には中条上野の集落があり、かっては原路と呼ばれる脇往還が堀際を通っていた。新府城から南に3.7キロ離れたところには白山城、東に2.4キロのところに日之城、北に1.9キロ離れて能見城がある。 
<遺構>
新府城は、おおよそ一山全体を利用して構築されている。山頂の本丸を中心に、西側には二の丸、南側に西三の丸・東三の丸といった比較的大きな郭がある。北側から東側の山裾には堀と土塁によって防御された帯郭がめぐり、南端にた枡形虎口・丸馬出・三日月堀を備えた大手、北西端は枡形虎口の乾門(搦手)を付設した郭が配され、これら主要な施設に付帯する郭・土塁・虎口等から成り立っている。ただし、東側山裾を南北に走る県道は昭和7年(1962)に開削されたものであり、部分的に遺構を壊している。
本丸は東西約90m、南北150mの広さの郭である。中央部分から北にかけては窪地があり、北側半分の西縁は一段高い平坦地となっている。中央から北東側には藤武神社が鎮座しており、地形的に低くなっている。周囲には1~1.5m程の高さの土塁がめぐるが、神社東側は参道と拝所の空間で土塁は途切れている。藤武神社は、廃城後、江戸時代に祀られ、参道の石段は近世以降につくられたようである。南西隅は東西約10m、南北約50mの、北側から南に向かって漸次低くなる長方形に区画された虎口空間で、蔀の構と呼ばれる。一部道路によって破壊され不明瞭となっているが、蔀の構は変則的な枡形の類と考えられる。このほか北側中央、北西隅、西側中央、南東隅に土塁の開口した個所があり、それぞれに斜面や腰郭、他の郭に通じており、虎口と思われる。なお、蔀の構の東側にある直径10m程の穴は、江戸末期から明治にかけてここに芝居小屋が建ち、そこで使用されたまわり舞台の奈落の跡である。本丸の発掘調査では、石積みや石築地、柱穴などが確認されている。藤武神社南側のトレンチ調査で柱穴の確認された周囲には焼土があって、その中に炭化した米粒が認められた。廃城時の様子を物語る貴重な発見といえる。二の丸は東西70m、南北55mも広さで土塁に囲まれており、西側が高く、東側は約20mの幅で一段低い。西端は七里岩の急崖となっている。南側には一段低く土塁で画された郭が付設されており、本丸南側山腹の腰郭へ通じている。北側には長さ約45mの三角形状の平坦地がある。三の丸は、本丸から南側に100m程離れた中腹にあり、その間には、竪掘のような浅い溝や2~3段ほどの腰郭がみられる。南北100m、北辺の東西130m、南辺の東西70mの台形を呈する郭で、中央を南北方向に土塁がのび東3の丸と西三の丸にわけられ、東三の丸は、西三の丸に比して1m程低い。西三の丸の西側には、5m程下がって東西40、南北50mの三角形状の平坦な郭がある。大手は東南端の中腹にあり、東西14m、南北20mの空間 
ももつ枡形虎口で、南側に三日月堀と丸馬出がともなう。枡形の内側は基底部の幅約10m、高さ約3.4mの大きな土塁が鉤の手形に配され、外側の馬出側は基底部の幅約5m、高さ1.2mの低い土塁で西側が短く東側が長くなっており、枡形の前後で虎口の位置をずらしたつくりとなっている。丸馬出は東西30m、南北15mで外側に低い土塁がめぐり、約10mの比高差で三日月堀が付設されている。大手から西側の崖縁には、東西30m、南北20m程の三角形の平坦地があって、北東側に一段高く土塁に挟まれた虎口があり、大手枡形内側 の25m四方ほどの平坦地と帯状の郭でつながっている。大手と三の丸の間の空間は道によってわかりにくくなっているが、段状に整備された平場や虎口状の遺構がみられる。乾門(搦手)は城の北西隅にあり大手と同様に内側が高く大きな土塁、外側が低い土塁で、13m四方ほどの空間をもった変則的な枡形となっており、西側の七里岩の断崖と、東側の水堀とに挟まれた土橋で城外と連絡している。なお、乾門は従来搦手と呼ばれていたが、城の裏門を意味する搦手の呼称は門の機能を限定してしまうことから、史跡整備事業では、城跡での方位を冠して、乾(北西)門としている。乾門(搦手)の枡形虎口の一之門(外側門)は北西角、二之門(内側門)は南東隅寄りに設けられており、一之門の調査では、直径45cm前後の円形の柱穴が、中心で約1.9mの間隔で南と北の二ヵ所に検出された。二之門の調査では、方形に配された六個の礎石が確認された。礎石の中心での間隔は2.5mx2.8mあり、間口に対して奥行きが長い配置となっている。礎石際と土塁の間には石積みが施されていたが崩れた状態であった。礎石にともなって散在した状態で焼土や炭化材、角釘が出土しており、新府城廃城時の様子を伝えている。門にとりつく土塁は、傾斜のきつい切り立った土塀状であったことも推定されている。乾門(搦手)枡形の内側は、北側を水堀と土塁、東から南側は水堀から鉤の手に入り込んだ深い空堀によって囲まれた東西65m、南北20mの郭となっている。この郭と二之丸の間には、上端の直径約32mの擂鉢状の井戸跡がある。 
<歴史>
武田勝頼によって新府城が築かれたのは天正9年(1581)のことである。武田信玄の跡を継いだ勝頼は、天正3年(1575)に三河の長篠城をめぐる織田・徳川連合軍との攻防戦の末、設楽原で敗戦を喫する。この長篠の戦いで武田氏は大打撃を受けたが、勝頼は天正5年(1577)に相模の北条氏政の妹を娶ることで同盟関係を築き、天正7年(1579)には越後の上杉謙信亡き後の相続 争いで主権を執った上杉景勝に妹を輿入れさせ甲越同盟を結ぶなど、積極的に近隣諸国と外交政策を展開する。ところが、謙信の後継者争いで景勝に敗れた上杉景虎は、北条氏政の弟であったため、甲越同盟は結果として甲相関係を破綻させ、氏政は徳川家康と結び、武田氏と北条氏は全面戦争に突入する。さらに天正8年(1580)には、織田信長と対立していた本願寺光佐(蓮如)が信長側と和睦し、上方方面における武田氏の同盟国がなくなってしまい、勝頼は関東を制圧する北条氏政、東海の徳川家康、甲信侵略を狙う織田信長たちに直接対抗しなければならなくなってしまう。このような情勢のなか、本拠地甲府の防衛の要となる要害城の再整備や防衛態勢の強化が進められ、そして、新府城築城が決行される。新府城築城を示す唯一の史料は、天正9年1月22日付けで真田昌幸が普請人足の動員を告げたものである。家10間あたり1人を召出し、同年の2月15日に着府するように命じ、軍役衆には人足分の食糧を申し付け、30日の普請日数を定めている。このような書状は武田領国中に発給されたものとみられ、普請の人足が挑発され新府城築城が開始される。2月に始まった築城工事は、同年9月には一応の完成をみる。新城に即刻移居するつもりの勝頼ではあったが、北条氏家臣の伊豆徳倉城城主笠原新六郎が内応してきたため、その処分に出馬していて引越しがが遅くなったようである。新城への移転は12月24日に行われた。翌天正10年に、武田氏の外戚である木曽福島城城主木曽義昌が信長方に寝返ったことを伝え聞き、勝頼は2月2日に軍を率いて新府城を出発し諏訪の上原城に陣を据えた。とこが、義昌援護のために織田軍が信濃に侵攻すると、武田勢は敵方に内通したり、投降・敗走したりするものが続出し瓦解していった。留守を預かる勝頼の夫人北条氏は、戦闘に臨んでいる夫の武運と勝利、子孫の繁栄を哀願し、2月19日に武田氏の氏神である武田八幡宮に祈願文を奉納した。けれども厳しい情勢は変わらず、2月28日に勝頼 は上原城を引き払い新府城に戻った。3月2日、勝頼の弟仁科盛信の拠る高遠城が、織田信忠率いる織田軍の攻撃によって落城する。その知らせを受けた新府城では、善後策について評定が行われ、嫡男信勝は新府城での自害を望んだ。真田昌幸は上州吾妻へ退去することを進言し、小山田信茂は郡内の岩殿城へ立て籠もることを申し出たという。岩殿城への撤退を決断した勝頼は、翌3日早朝、新府城に火を放ち城を逃れ出た。在城わずか68日であった。新府城を後にした一行は、小山田氏の変心に遭い途中から天目山をめざすが、11日田野において信長方の滝川一益に囲まれ、勝頼は夫人と嫡男信勝とともに自害し武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、信長は穴山氏の所領であった河内領を除いた甲斐国の新領主に河尻秀隆を任命する。しかし、6月2日に信長が明智光秀によって討たれる本能寺の変がおこり、秀隆は一揆によって殺されてしまう。全国的な動揺が広がるなか、北条氏と徳川氏は旧武田領国の奪取をかけて争い、甲斐国内は戦場となる。この戦いはその年の干支をもって天正壬午の乱と呼ばれ、北条氏直率いる北条軍は上野から信濃に入り、甲斐に向かって南進し、これに対して甲府を抑えた家康は7月に諏訪に兵を出した。しかし、徳川軍は北条方の進行によって8月6日には新府城まで撤退し、北条方の本隊はは若神子城に陣取った。また、郡内も北条氏に制圧され、北条宇氏忠は御坂峠に御坂城を構えた。10日家康は新府城を本陣にし、両軍は対峙することになる。12日には黒駒において徳川方が御坂城から甲府を目指し出兵してきた氏忠の軍を撃退する。これ以降両軍の間に大きな武力衝突はなく、二ヵ月程の退陣の末10月29日に家康と氏直は和議を結び、北条勢は退却し、徳川氏は甲斐国を領有するにいたる。家康は甲斐国の支配を平岩親吉に命じ、甲斐の府中はふたたび甲府の地に戻ることになる。戦後処理を行った家康は12月12日に甲府を発っている。 
 <関連部将>武田勝頼</関連部将>
  <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>





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最終更新日  2024.04.20 06:17:26
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