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2022.10.22
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この城址には2回訪れた。一回目は、R11(熊谷小川秩父線)をたどっていって、右側の丘陵が城跡だと検討づけて、登り口を探して車を停めて車道を歩いて見た。近くにいた人に聞いたがわからないというので、城の南側から山道もない山の斜面に分け入った。樹木の中の急な斜面をしゃみむに登っていくとちょっとした平場に着いた。縄張り図で郭2だった。そこから段差のある平場が郭4郭3、そこからは通歩道を城の遺構の標識もあって、郭1までたどることができた。郭1(主郭)への虎口や空堀、縦堀、石積などの遺構が標識とともに観察することができた。帰り道に車道を走っていると、道路脇に城の標識が立っているが分かった。これを見落としていたのだった。2回目は「パトリアおがわ」の駐車場に車を停めると、駐車場にも城の案内もあり、城入口から城址までの山道も整備されていて、簡単に城跡に達することができた。
<地図>
外秩父山塊を源とする槻川は、東秩父村大字白石に発し、坂本と北流する。大字落合にて東へ流れを変え御堂、安戸を過ぎると蛇行しながら小川盆地へ至る。腰越城は、槻川が盆地に入る小川町大字腰越の西端に所在し、西隣に東秩父村大字安戸との行政境を控えた標高216m地点を中心とする山城である。地元では、根小屋城、安戸城とも呼ばれる。城に向かうには、車またはバスにて町総合福祉センター(パトリアおがわ)を目指す。同施設の駐車場が利用でき、案内板も充実し迷うことなく山頂まで辿り着ける。
この城は、槻川の大きな蛇行により形成された丘陵に占地している。したがって、山腹から頂上に要害部分を普請し、東西南の三方を槻川が巡っている。さながら川を水堀に見立てて山裾の平地を外郭に擬したごとくで、まさに天然の要害に拠った城といえる。興味深いのは、川の蛇行により城地の三方を囲み、丘陵先端でなく基部に郭を普請している点である。谷と堀切で途切れるが北尾根続きには城より高い峰が続き、城頂部からは小川盆地と安戸方面の一定の方向しか見晴らしがきかない。これらの要素は、いずれも下流約6キロに位置する、ときがわ町小倉城に共通する。築城に当たっての最もベースとなる城地選択、
すなわりグランドプランを小倉城と共有する点は、優れた遺構をのこすといわれる比企地方の謎の城郭群を理解するうえで重要な視点となる。
<遺構>
腰越城は山自体が急峻で、造成しても大きな平地が確保できず、中腹から山頂にかけてまとまった面積の郭は確保できない。地形的制約から、この城は中小規模の郭が多いのが特徴である。また縄張構成として、特徴的なものに、虎口まわりの技巧性がある。すなわち、郭1と郭3の虎口の前に小郭を配し、小郭で90度折れて主体部へ進むもので、青山城にも同様の構造が見られる。また、しっかりとした二重堀切が見られる点と、比企地方では例がない長く伸びた竪堀の使用も注目される。竪堀はどうやら通路としても使用されていたようで 折れまがって腰郭に直接繋がっている部分もある。平成19年(2007)には郭1と虎口前の小郭で発掘調査が実施された。確認された遺構で大注目なのが、郭1西辺に所在した低土塁の内側に発見された石積み遺構である。出土した遺物の年代は15世紀末から16世紀第一四半期に近い前半と報告されこの遺構は廃絶時期を知らせる。遺構と年代を総合すると、石積み遺構については、石材2から3石積んだ1段の石積みで土留め的要素ものこし、小倉城や鉢形城で確認されている土塁内側の雛壇状の石積みの先行形態である可能性を秘めている。
<歴史>
腰越城も「関八州古戦録」に青山城とセットで登場し、同様の理由で上田氏の持城の1つと考えることが最も合理的な理解である。ここで注意しなければならないのは、浄蓮寺(東秩父村)の存在である。浄蓮寺は、小川盆地の西に連なる御堂の谷に所在する日蓮宗の名刹である。上田氏はすでに14世紀末には日蓮宗に帰依し、その熱烈な支持者となっていった。その故あって、現在の東秩父村周辺は皆法華の地とされ、寺は比企上田氏により精神的な拠り所として取り立てられ松山城主の菩提所となった。境内には、上田政広、朝直、長則3代の宝塔形墓石が整備されている。腰越城は、この浄蓮寺の前面を塞ぐごとき位置にあり、浄蓮寺 側の西山麓には上田氏重臣の山田氏に関わる山田屋敷とその墓地、そしてゼーケの地名が、反対の東山麓には根古屋の小字がのこり広範に関係地名が確認でき城下構造の一端を伺うことができる。この城は、比企上田氏の拠点松山城に対し、奥津城の地浄蓮寺一帯を死守する、最後の楯として位置付けられるのだ。
 <関連部将>上田氏</関連部将>
  <出典>関東の名城を歩く 南関東編</出典>





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最終更新日  2022.11.05 06:31:26
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Re:埼玉県比企郡小川町腰越の蛇行する槻川に突き出した丘陵上にある越越城(10/22)   みどり さん
国土地理院の地図、取り違えていませんか?全然別のところのように見えるんですが。 (2022.10.22 07:24:19)

Re[1]:埼玉県比企郡小川町腰越の蛇行する槻川に突き出した丘陵上にある越越城(10/22)   歴城19 さん
みどりさんへ
コメントありがとうございました。
 指摘の通り、槻川の下流の似たような地形の地図でした。確認が十分でなかったようです。
(2022.11.05 06:35:39)


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