|
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨年、鎌倉鶴岡八幡宮から西武蔵野まで鎌倉古道の上つ道を歩きました。その時、多摩川手前の大栗川を渡る前の場所が関戸で、関戸合戦跡などがあります。そこから西側の丘まで住宅街になっているが、その丘の上に金比羅宮のある付近が関戸城のあった所 です。この場所は多摩川の渡河点で昔は交通の要衝地で、それを監視する目的で築城されたのであろう。遺跡は、新しい住宅地になって、何も残っていないが、標識などは設置されています。 <地図> 古鎌倉街道上道は、分倍河原(府中市)で多摩川を渡る。そのすぐ南方、多摩川支流の大栗川と乞田川の合流点を東方眼下に見下ろす比高50m余りの通称「城山」に、関戸城はあった。付近は多摩川の最も古い渡河地点の一つとされ、早い時代から宿駅が形成され関所が置かれていた。当時城山は、関戸の町並みや分倍の河原、武蔵国府の府中、武蔵野原を一望できる重要な戦略拠点とされていた。聖蹟桜ヶ丘駅から南に川を渡るとジグザグの道路が高度を上げて続く。坂を上りきった場所に金比羅宮がり、桜ヶ丘住宅地内を通る車道の天守台(関戸城址)の標識がある。この付近の高台が関戸城址である。 <遺構> 現在、城址一帯は、桜ヶ丘団地として開発され、住宅が密集して遺構はほとんど失われている。金比羅宮のある場所は、多摩川方面の展望がきき、過渡点を見張るに絶好の地点であり、天守台の標識の東側は、古鎌倉街道を見渡せる場所で、斜面には小さな公園や住宅が続いている。これらの地形から城が築かれていた場所であることが想像できる。 <歴史> 元弘3年(1333)の新田義貞と北条泰家が戦った分倍河原・関戸合戦や、足利尊氏と南朝の新田義興が戦火を交えた武蔵野合戦(1352年)の舞台となった。また明応3年(1494)、扇谷上杉定正の守備する関戸要害(城)を、山内上杉顕定が攻め落としたことが史料に見える。戦国時代には、小田原北条氏の所領とされた。 <関連武将>上杉顕定</関連武将> <出典>日本城郭大系、むさし城跡ウオーキング</出典> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
いろは坂桜公園の近くのお城は稲城城であって関戸城は関戸公園の周辺のお城である。
(2023.03.28 15:45:34)
|