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2014.12.12
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札城
北浦の鹿行大橋を渡って右折すると、城址のある札地区に着く。R18から1本山側に入った住宅が立ち並ぶ細い車道があり、その道を歩きながら城址を探すと安福寺と思われる寺に通じる登り道があり、たどって行くと分岐があり、始め直進すると、諏訪神社と鳥居が見え、草の道を境内にいる。I郭があったのは松尾神社らしいので、分岐に戻り、道を登ると城址の遺構、空堀や土塁が見え、やや広い平坦部がI郭らしい。その先の石段を登ると松尾神社があった。どこの神社もそうであるが、山の中の神社の周りは、枯葉などが綺麗に掃除されている。地元の人(滅亡した札氏と何らか関係した人だろうか)。それにしても、この付近の城に残る佐竹氏の「南方三十三館の仕置き」の残酷さはいくら秋田で名大名であったとしても、歴史上の汚点は消すことができないであろう。石田三成(豊臣秀吉は了解してたであろう)の示唆ともいわれているが・・・。(2014/11/20訪問)

北浦の東岸、鹿島台地の樹枝状に伸びた半島状台地の先端に札城は築かれている。北浦のちょうどくびれた部分にあり、水上交通の監視も担っていたと考えられる。周辺水田からは比高差約30m。初代城主は平国香の後裔、常陸大掾氏分 一族馬場繁幹でこの地を領し当城を築いたとされる。その子、幹高より札氏を名乗るようになる。天正19年(1591)城主、札幹繁は「南方三十三館の仕置き」で佐竹義宣の策謀により常陸太田城で暗殺されそうになったところ、危うく難を逃れ小里村(常陸太田市)で蟄居した。

その15年後、郷里に戻ったが病死し札氏は滅亡した。城の構造は台地先端部に築かれた直線連郭式の丘城で、南北に約350m、東西に約90mの細長い城域を持つ。I曲輪は、1辺約45mの正方形で一部には土塁が残っている。北、東、南は堀で囲まれ、特に東は不完全ながらも3重の堀を備え厳重さを誇っている。最も外側の堀Aは工事途中で放棄されたものか。土塁Bは折りかずみになっており注目すべき遺構である。

I曲輪の北に現在松尾神社が祀られているが、ここは北方より侵入する敵を監視し撃退するための曲輪だったと考えられる。2条の竪堀と南辺の大きな土塁が目をひく。本曲輪の南口位置するのはII曲輪で南北約45m東西約18mの細長い形をしている。北東隅より東方向へ土塁が延びているが、それ以外の土塁は見られない。I曲輪と隔てる堀に土橋状のものがあり、ここに土橋か木橋を架け虎口としていたと思われる。この虎口は曲輪面より一段低い小空間を設けられた枡形である。II曲輪の東側に北と東を土塁に囲まれた平坦地がある。

小字を「エトク屋敷」といい、城主か重臣の館があった場所と思われる。II曲輪の南には大規模な堀切を挟んでIII曲輪がある。ここは現在普門寺の墓地等になっており、かなり改変を受けているが曲輪と見てよいだろう。
*参考[新編常陸国誌」  (岡田武志)(茨城の城郭)





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最終更新日  2014.12.12 07:00:52
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