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2015.01.22
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カテゴリ:カテゴリ未分類
徳宿城
平成27年も明けて、天候の良くない日もあったりして、なかなか城めぐりを再開できないでいましたが、やっと茨城からスタートです。県道114号からはずれて少しいったところに鉾田川の支流部に貯水池があり、そこから登り道を行くと右手の山際に徳宿城の案内板があった。縄張り図のbの部分である。そこからは簡単にI郭の7つの神社が祭られている場所に行けた。かなりの部分は平坦に整備されていて、宝篋印塔のある場所などには土塁も認められる。そこから1本道があり、土橋らしいものを通って行くとII郭、III郭の畑地があった。その向うには民家が見えたから、この集落の人達が祀ってきたのがI郭の神社群であるらしい。滅んだ徳宿氏の弔いでもあるのか。(2015/1/21訪問)

鉾田川がつくる低地へ南に向かって突き出した舌状台地の先端部を利用し、大きな二重堀によって台地側を遮断している。徳宿城は別名を龍替城ともいい、この地を領した常陸大掾庶流鹿島氏の祖鹿島成幹の長子親幹が築城し徳宿氏を名乗ったという。文明18年(1486)5月、9代目道幹の時、水戸城の江戸通雅の攻撃を受けた。姻田氏ほか鹿行地域の大掾系諸氏の応援を受け、「徳宿合戦」、「樅山合戦」と呼ばれる大合戦を繰り広げたが敗北し、徳宿城は陥落、徳宿氏も滅んだ。

構造的には単郭に見えるが、二重堀中洲の土塁は中央部が崩されているようで本来はII曲輪だったと考えられる。II曲輪の北側には堀Bを隔ててIII曲輪があるが、ともに東側が畑地として使われており遺構は湮滅している。I曲輪には、稲荷神社、熊野三社権現、白鳥神社、八幡神社、出羽三山権現、愛宕神社、湯殿大権現が祀られ、南端部には「徳宿氏事績考碑」と戦死した勇者の冥福を祈る宝篋印塔1基が立っている。曲輪Iのほぼ全周に土塁が残り、特に台地基部に近い北側の土塁aは大きく、さらに折れを付けることで堀Aに横矢が掛かるようになっている。

ただ、現在の土橋は外郭から真っ直ぐにI曲輪まで交通していること、I曲輪側から横矢が掛かっていないことなどから本来の虎口ではないと思われる。本来の虎口はI曲輪の中央部分から木橋によってI曲輪へ入るようになっていたのであろう。また、西側台地下、城址碑脇の開口部bも後世のものと思われる。I曲輪の周囲は北西側を除き幅広の腰郭cが取り巻く。とくに北側部分はそのまま堀Aの堀底へと移行する。城址の北側の徳宿本郷集落は徳宿城の根小屋が発展したものと考えられる。

城址の西方約550mの「塔の峰」と呼ばれる地には徳宿城主代々の墓があり、北東約3.3kmの常磐原から西勝下にかけての一帯には「合戦場」や「合戦塚」、[血流れ窪]などの地名が残り、徳宿合戦の凄惨さを今に伝えている。また、那珂西城のIII郭南東角の杉林の中にこの戦での134の首級を葬ったという「首塚」がある。 (樋詰洋)
*参考 『図説「ほこたの歴史」、『鉾田の文化』第25号(茨城の城郭)





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最終更新日  2015.01.22 08:32:45
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