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2023.10.28
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もう20年近く前、東海道53次の蒲原宿を歩いているとき、その山側に蒲原城のあることを知り、その後2回ほど訪問した。この蒲原城は、武田信玄が2度目に今川領に攻め入ったときに、今川氏に味方した北条氏が守っていて、武田軍の力攻めにあって落城している。武田信玄が北条・今川・武田の同盟を破って今川領にせめ込んだ時、北条氏は今川氏真に味方して、武田軍に抵抗した。武田信玄は、京都にいって天下統一のするには、北条氏が邪魔だと思い、1回目の今川領侵攻のあと、北条領を徹底的に荒らしまわり、小田原城を包囲した。そして2回目の今川領侵攻の初めに蒲原城を攻略した。武田信玄の北条氏に対する怒りを表す攻めだったように思われる。のちに北条氏が秀吉軍にあっけなく敗れた遠因は、この時、武田信玄に抵抗して、報復されて北条氏の国力が極端に低下したことによるとも思える。
<地図>
蒲原城跡では、昭和48年から昭和62年にかけて測量調査が実施されているが、昭和62年以降は、公園の整備や道路建設にもとない 確認調査が行われた。本曲輪は、平坦部が神社の建設により大規模な削平が行われたため、建物の柱穴を一ヵ所で確認するにとど まっている。縁辺部には、石積みが確認されている。この石積みは蒲原城が機能していた時期の石積みである可能性が指摘されているが、今後の検討を待ちたい。善福寺曲輪と大堀切の調査出では、大堀切北側の斜面で大形状の施設(高さ約0.5m)が確認され、 
橋台であることが考えられているが、本曲輪との標高差から否定的な意見もあるため今後の検討をようする。大堀切からは、多量の炭とともに壁土が本曲輪側から投棄されたような陶磁器片やカワラケ片が堆積していたことが確認されており蒲原城の最後を示す資料として注目される。北側の帯曲輪では、土塁が確認されているが、現在みられる土塁はすべてが復元されたものである。さらに、二ノ曲輪や三ノ曲輪でも発掘調査が行われており、溝状遺構や柱穴などが検出されている。発掘調査により出土した遺物には国産の 陶器や中国からの輸入磁器があるが、その出土状況は15世紀中葉から後半年代の資料が徐々に増加し、16世紀前半にそのピークを迎え16世紀末の遺物は出土していない。このことからも蒲原城の機能していた時期および廃城年代を検討するための好資料となっている。  
<遺構>
蒲原城は、全体としては広大な面積を持ち斜面に階段状の曲輪を配した山城であるが、主要な遺構としては、標高137.7mの 城山に約70mx24~40mの平坦部を持つ本曲輪が存在し、北寄りに八幡社が鎮座している。曲輪の東西には1m未満の比高差で帯曲輪を伴っている。北側にある現況で幅約13mの大堀切と西側に続く竪掘を挟んで約55mx約60mの平坦部を削り出した善福寺曲輪(標高129.4m)が存在している。北側の搦手口方面は道路等の建設により大規模に改変されているため不明な部分があるが、自然の谷を利用して築城された大空堀が存在している。本曲輪の南西側に延びる尾根上には約12mの比高差で二ノ曲輪が上中下の三段に階段状に形成されている。この曲輪はミカン畑として利用されていたが、現在は竹林等で荒廃した状況である。その先約150mで三ノ曲輪が存在する。三ノ曲輪の規模は115mx90mで、現存している曲輪では最大で馬出曲輪または駐屯地と考えられ、周辺には三ノ曲輪井戸や城兵も水汲み場と考えられる地点も存在している。現在は存在しないが本曲輪の南側に独立 した形状の砦として小峯砦が存在していたが、東名高速道路の建設により削平されたために現状ではその姿を確認できない状況である 
 <歴史>
蒲原城は、戦国期今川、北条、武田の三氏が境の城としての重要性から、勢力争いを繰り広げ、文献でもまとまった良好な資料が存在している。天文6年から始まる今川氏と北条氏の富士川以東をめぐる「河東の乱」と呼ばれる抗争では富士川を挟んで西側の今川氏の前線拠点として蒲原城が存在し、遠江の国人や土豪の飯尾乗連、二俣昌長、原六郎らが、城番として駆り出されて守備している。天文23年(1554)、北条氏康の娘が今川氏真と婚姻し、駿・甲・相の三国同盟が成立したが以後も朝比奈千代増らの駿河の土豪が在番している。現在では、その城が蒲原氏数代の居城であるとは考えられていない。永禄11年568)には、武田信玄が駿河に侵攻したが、途中蒲原城を攻めずに駿府に入ったため、籠城していた今川氏真の家臣と北条氏の援軍が武田軍を駿府に足止めさせ、信玄は一時帰国することとなった。永禄12年1569)武田信玄は、ふたたび駿府掌握のため侵攻し、今度は蒲原城を攻め落とし、北条氏信をはじめとする多くの武将が討死した。武田信玄は直ちに重臣の山県昌景をいれている。天正10年(1582)以後、徳川家康の駿河支配によりその役割を終えたものと考えられる。 
<関連部将>今川氏、北条氏、武田氏</関連部将>
 <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>





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最終更新日  2023.10.28 05:11:58
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