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2023.11.04
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丸子城は、静清バイパスの丸子ICから一般道をしばらく西に行くと谷戸状の地形があり、その方向に進むと、左側に誓願寺がある。誓願寺の駐車場に車をとめ、道路を横切って、建物の脇の細い道を進むと、尾根の山道となり、登ってゆくと馬出曲輪跡を経て本丸曲輪跡の広い平場に着く。そのその先にも二の曲輪跡、北曲輪跡が樹木の中にある。曲輪、土塁、空堀、虎口など城の遺構が確認でき、規模の大きい城である。
<地図>
丸子城は阿部川の西側に位置する標高139.8mの通称三角山に築かれている。北方より伸びる山塊の先端に位置しており、南山麓には東海道が通っている。城の北方には藁科川が流れて安倍川に合流している。駿河府中の西側の守りは阿部川であるが、さらにそこより一歩抜きん出た位置に丸子城は位置している。そのため府中を守る山塊がほとんどなく、阿部川を渡河されてしまうと何ら防御の拠点となるような地形が見当たらない。まさに阿部川が西方防御の要であった。その阿部川の渡河を防ぐことが東岸では不可能なため、河川より西外側ではあるが丸子城の所在する山頂部が選ばれたものと考えられる。つまり駿河府中を守る最前線基地として築城されたものと考えられる。もちろん最前線として街道を押えることも視野に入れた築城であった。 
<遺構>
丸子城は東西約200m、南北約250mを測る。駿河では最大級の山城である。主郭Iには土塁が巡らされ、北・東・西の三ヵ所に虎口が開口している。とりわけ北の虎口はI郭とII郭とを結ぶ重要な虎口で、前面に虎口受けの小曲輪が構えられており、外枡形形状 を呈している。一方、外枡形の正面となるII郭の南東隅部は方形に突出している。ここに橋が架けられていたと考えられる。このようにI郭とII郭は橋によって行き来していたとみられる。II郭より北東方に伸びる尾根筋上には、III・IV・V・VI郭が階段状に構えられている。いずれの曲輪にも西側に面して土塁が構えられている。さらにI郭とII郭の間、II郭とIII郭の間、III郭とIV郭の間、IV郭とV郭の間、V郭とVI郭の間、VI郭の南面には竪堀が設けられており、敵の斜面移動を封鎖している。また、VII郭の南面、VI郭の南面、I郭の南東と南に伸びる尾根筋にも竪堀が設けられている。北側の尾根筋には堀切dが構えられ、東側の尾根筋には横堀Eが巡らされており、尾根に対しての遮断線としている。城の西側防御はこうした竪堀や堀切とはまったく様相を異にしており、曲輪切岸面に横堀を延々と巡られている。この横堀はI・II・III・IV・V郭直下に廻されており、遮断線としての横堀ではあるが、それとともに堀底道としても機能しており、I郭の北東部直下には虎口aが構えられている。虎口に隣接する横堀には堀外の土塁をコの字状に突出させて方形 の武者溜りbが配置されている。この武者溜りbによって合横矢を効かせて虎口aを守っている。加えて武者溜りbの外側土塁からは 竪堀が構えられ、やはり虎口aの側面を防御している。このように横堀は丸子城の西側防御とともに堀底道としても機能していたが、それも虎口付近では非常に巧妙に普請され、その城址の見どころのひとつとなっている。丸子城の構造でとりわけ注目できるのが東よりVII郭、X郭、IX郭である。これらは半円形の曲輪を造成し、その前面に横堀を巡らせるという構造となる。いわゆる丸馬出として構えられた防御施設である。通常丸馬出は段丘上に構えられた城郭に多く認められる。その典型例が静岡県の諏訪原城や小長谷城で
ある。また、伊那大島城も同様に段丘上の地形に築かれた城郭である。山城で丸子城の丸馬出とよく比較されるのが静岡県の大居城である。側面に土橋を構えて城外と結び、本曲輪へは曲輪も中央に土橋を設けて結ぶ構造はまさしく丸馬出そのものである。しかしその平面構造は自然地形の制約を受けて半円形とはならず、いびつな方形となっている。このような明らかに丸馬出として構えられた防御施設は山城でも多々見受けられるが、それらの大半は犬居城と同様に不定形な平面構造となっている。それに対して丸子城のIX,X郭は自然地形の制約を無視して、見事に半円形に造成されている。その構造は教科書的と言っても過言ではないだろう。山城で このような教科書的な丸馬出を構えるものは他に例を見ない。IX郭は丸子城の西端に構えられており、背後のVIII郭とは堀切で分断されているが、その堀切は南側で竪堀となり、丸子城の南面を防御している。曲輪前面は堀切から横堀が巡らされている。この横堀前面に廻る土塁上が城道だったようで、馬出の南面に土塁から続く土橋が架かり虎口となっている。さらにIX郭で興味深いのは、背面のVIII郭とは横堀によって完全に遮断されていることである。城内と馬出IX郭とは行き来ができないのである。こうした構造からIX郭は城外へ出撃できる橋頭堡としての馬出ではなく、横堀より突出した場所に構えられていることより戦闘指揮的な施設であった可能性が高い。あるいは山城であるため城内とは高い切岸によって分断されており、段丘上に構えられた城の丸馬出とは同じ構造にできなかったとも考えられ、その場合は背後の曲輪との行き来は梯子などを用いていた可能性も考えられる。圧巻はこのIX郭の丸馬出の北面から北西山麓をめがけて掘られた竪堀cである。ほぼ山麓まで掘削されており、堀の北東側には土塁も設けられており、南西側からの攻撃に対しての斜面移動を封鎖する遮断線であった。IX郭の丸馬出とセットで構えられ、城の西側防御の最前線を担っていた。このIX郭と竪堀の存在からも丸子城が西側からの攻撃に対処する城であったことがわかる。つまり府中側の防御施設であったことを物語って 
いる。X郭は城の西側に巡らされた横堀のほぼ中央に構えられている。横堀のラインより突出して構えられており、馬出背後が横堀によって遮断され、前面には横堀が巡る。馬出への虎口は西側だと見られ、横堀に対して土橋が架かる。ただ面白いのはこの馬出と外を結ぶ土橋が横堀外側の土塁と結ばれており、外側土塁も城道として用いられていたことをしめしている。また、X郭でもIX郭と同じく背面に位置する曲輪とは横堀によって完全に遮断されている。さらにX郭も前面の横堀から竪堀を構えているのもIX郭の構築と同じであり、丸子城の丸馬出は同じ発想で構えられた施設であることがわかる。さて、丸子城の東側先端に構えられたVII郭はこれまで馬出として評価されることはなかった。しかし、その構造をよく見ると、前面に横堀を巡らせ、城外側に設けられた土塁を城道として曲輪南側の側面に虎口を構えている。背面にも北側には横堀が回り込み、次のVI郭とは分離した構造となる。IX・X郭のように定型化はしていないが、馬出的機能を有する曲輪として評価することができよう。このように丸子城の構造は戦国時代後半の非常に発達したものとして評価できよう。土造りの城の到達点といっても過言ではないだろう。さらにそれは増改築を繰り返したものではなく、統一感じさせるまとまりのある構造であり、一時期に築かれたものと考えられる。 
<歴史>
丸子城に関する史料はほとんど残されておらず、その歴史は不明に近い。宗長法師の「宇津山記」によれば、「駿河国宇津の山は、今川被官斉藤加賀守安元しる所とり(中略)、北にやや入て泉谷いふ安元祖先よりの宿所」とある。15世紀に泉谷に今川氏の被官である斉藤氏が居館を構えており、当初はその詰城として築かれた可能性が考えられる。永禄11年(1568)に武田信玄は駿河を手中に収めると、翌年正月に山県昌景を丸子城に入れ置き、花沢城などの今川方の諸城に対峙させた。天正10年(1582)には諸賀兵部、関甚五兵衛が在番として入れ置かれるが、持舟城の落城とともに武田勢は駿河より撤退する。その後駿河に入国した徳川家康は丸子城に松平(竹谷松平)備後清善を入れ置くが、天正18年(1590)の家康関東移封にともない廃城となった。こうした城の歴史と丸馬出の存在から丸子城の築城主体は武田氏であると言われてきた。しかし静岡県の諏訪原城では近年の発掘調査などから武田氏築城説は否定され、のちに入城した徳川家康によって改修された可能性が指摘されている。丸子城でも武田氏撤収後に松平清善が入城しており、当然その段階で改修された可能性は高い。 
 <関連部将>斉藤氏、山県昌景、諸賀兵部、関甚五兵衛、松平(竹谷松平)清善</関連部将>
  <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>





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最終更新日  2023.11.04 06:07:35
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