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![]() 今年もパリ在住の友人・渡部正廣さんが日本で個展を開かれています。 場所は、銀座 柴山画廊です。 下記のURL↓ ↓ にアクセスしてもらえば、個展の様子(パノラマ画像)を見ることができます。 http://www.jpartmuseum.com/jam_live/sibayama_g157/_flash/01.html 渡部 正廣 展 Masahiro WATANABE 2011年10月12日 (水) ~ 10月17日 (日) 11:00 ~ 19:00 (Last day - 17:00) 銀座 柴山画廊 東京都中央区銀座5-8-3 柴山銀座ビル2F TEL:03-3571-2125 FAX:03-3571-3638 http://shibayama.cool.ne.jp/ お時間のある方は、是非、立ち寄っていただければうれしく思います。 京都大学の川添 信介氏の推薦文を紹介しておきます。 [抽象と具象、そして美] 渡部正廣さんの絵はいちおう具象画ということになるのだろう。 わたしは絵についてはまったくの素人でしかないし、絵のジャンルと いったこともどうでもいいことなのだろしかし、もう25年以上も渡部さんの 絵を見てきて、だんだんと抽象画に近づいてきているという印象を拭うことが できないでいる。なぜなのだろう。 もう10年ほど前、渡部さんの個展のために記した文章「パリの形相」で、 わたしは渡部さんの営みを、パリという街の建物を<見て>、そこに顕れた 人間精神を<考え>、それをタブローの中に<手>で定着させようとするものだ と書いたことがある。 だが、よく考えてみると、<見る>ことと<考える>こととの間にはある種の 緊張関係があるだろう。 見えるものには<象・かたち>があり、画家は実によくこの象をみている。 そしてその象を最終的にはタブローとして<象(かたど)っている>。 だから、渡部さんのタブローは象を具(そな)えた具象画でありつづけている。 しかし、見ることと象(かたど)ることとの間には<考える>という媒介があり、 考えられている対象すなわち人間精神には、眼に見える象(かたち)がないはずなのだ。 人間精神は象から切り離されているものという意味で抽象的なものである。 それこそ何でも抽象的に考えてしまう哲学などに関わっていると、ついこのように 考えてしまう。だが、画家にとっては<見る>ことと<考える>ことの間に 緊張関係などないのかもしれない。 あるいは、その二つを結びつける<手>の熟練が、あるはずの緊張関係を ひょいと飛び越えてしまう域に達したのだろう。象(かたち)のない人間精神の 在り方についての思想をいちおうは象のあるタブローとして定着させる 渡部さんのなかで、象がそのまま思想となっている、というか、思想が そのまま象として顕れているように見える。そのために、象を保ちながらも 抽象画のような印象をもってしまうのではないかと思う。 いや、こんな面倒くさいことを考えることは哲学者風情のやることで、自分は <美>を求めているだけなのだと画家はいうのかもしれない。 きっとそうなのだろう。だがもう一歩踏み込んでみる。 美は本質的に<一挙に全体が>現れるものだろうと思う。 空間芸術である絵画は言うまでもなく、時間芸術である音楽や演劇であっても、 美が美として立ち現われるのは、ある全体が一挙に一つのものとして感じられる 時であるように思われる。 だから美を求めるということは、どこかで<永遠>を求めることにつながっている。 現実の世界は必ず過ぎ去る時間とともに存在するのに対して、永遠とは全体が 一挙に存在することだからである。 そして、現実の世界とはいつでも象をもつものでもある。そうするとやはり、 タブローの中に現実の象があろうとなかろうと、そこに見出される美はどこかで <永遠>という<象なきもの>だということになろう。 結局、渡部さんの絵が美しいのは、熟練した手と結びついて考えられている 事柄である人間精神が永遠なるものと連なっているからだろうと思う。 象がそこに見えているのに抽象的に感じられるのは、そのためだ というのがわたしの結論である。 [川添 信介 - 京都大学文学研究科教授・西洋中世哲学史] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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