京の歴史-平安遷都7
こんばんは山深い土地で、水と深いかかわりを持つ神をひっそりと祀っていた豪族の前に、突然中国風の都市が出現した。平安遷都の情景はこのようなものであったのでしょう。ということで、平安京の誕生をうかがわせる史跡を巡って来ましたので紹介します。平安京は東西約4.5km、南北約5.2kmの広さで、中央の朱雀大路を境に、東側の左京と西側の右京に分かれています。京都の地図を見て、右側が左京で、左側が右京、ややこしいですねぇ。平安京のおもな通りの地名の多くは現在も受け継がれており、平安京の北限が今の一条通、南限が九条通であることからもわかります。その南限にあるのが、京都のシンボルの一つでもある"東寺"です。もちろん、東寺は世界遺産ですね。東寺は、平安京の南方の正面である羅城門(羅生門)のすぐ東方に位置しています。これは平安遷都にあたり、都の守りとする東寺と西寺を羅城門の左右につくろうとしたことにもとづくものです。【東寺金堂】実は、東寺と西寺の建設には長い年月を要しました。平安京の造営自体が大事業であったために、東寺や西寺の建設まで手がまわらなかったのが実情でした。結局、東寺の金堂が完成したのは823年で、そのときはすでに、嵯峨天皇の代になっていました。【東寺五重塔】この五重塔は、実は平安京造営当初の東寺の建設にはなかったもので、建設しようと考えたのは空海で、完成したのは東寺完成後50年以上も経ってからになります。 【羅城門跡石碑】 【羅城門原型イラスト】 現在では羅城門は[らじょうもん]と読むが当時は[ら(い)せいもん][らしょうもん]と読んだ。そこで、中世以後[羅生門]と書くようになりました。また、『羅城』とは都城の外郭と言う意味です。羅城門は、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関の巨大な門で、二層構造の瓦ぶきで、正面約32m、奥行約8mありました。そして、平安京の正面玄関、そして凱旋門としてその役割を果たしていました。この羅城門は816年8月16日夜、大風で倒壊。再建されましたが、980年7月9日暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していきその荒廃ぶりから羅城門に関わる様々な説話が生まれ、盗賊のすみかにもなりました。平安京の中でも、右京南部は低湿地であったため早くさびれ、貴族の屋敷が左京北部に集中するようになったのです。このことにより、現在の京都の市街地が、かつての平安京の左京(東半分)を中心とする範囲に広がることになったということです。