平城京遷都まで6
天智天皇から天武天皇へ飛鳥を歩いていると、多くの天皇陵や宮跡の遺跡と出会います。この時代は天皇が変わるたびに今までの都の建物は全部壊して遷都したことから、平城京までの多くの都にあっただろう建物はまったく残っていないということです。 671年に天智天皇が亡くなったあと、天智天皇の意に反して、672年叔父(大海人皇子)VS甥(大友皇子)の熾烈なバトルが始まります。これがいわゆる壬申の乱(じんしんのらん)ということです。皇位継承権を持つ皇族が鎧兜をつけて殺し合いをするというのは、大きな争いでは歴史上これが最後となります。さて、まずは大海人皇子は当初、天智天皇の動きを警戒し奈良県南部の吉野に隠居していましたが、密かに美濃(岐阜県)へ脱出します。いったん、朝廷の直接的な支配下から離れたわけですね。ここで、これまでの政治に不満があったり、没落した豪族などを味方につけ、不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)などの交通の要所を押さえ、着々と体制を整えていきます。また、長男である高市皇子、それから大津皇子などの息子も駆けつけました。これに対し、大友皇子(弘文天皇)は右大臣の中臣金(なかとみのかね)、左大臣の蘇我赤兄を中心に対策を協議し、有力な豪族達に軍を組織させます。そして、約1ヶ月の戦いの末に大海人皇子の軍勢が勝利し、大友皇子は自殺します。25歳の短い生涯を終えました。また、中臣金ら8人は死罪に、蘇我赤兄らを流罪に処されました。これにより、中臣氏、蘇我氏の多くは没落していったようです。そして大海人皇子は673年に都を飛鳥浄御原宮に遷し、第40代天武天皇として即位しました。【飛鳥浄御原宮】飛鳥寺の南部にあります。 この遺跡は宮殿遺構が重複しているそうです。上層B期が天武・持統朝の飛鳥浄御原宮で上層A期は斉明朝の後飛鳥岡本宮であることがほぼ確定しており、中層は皇極・斉明朝の飛鳥板蓋宮である可能性が大きいとされています。こうした政変劇によってこれまでの有力氏族が没落したことで、天武天皇は中央集権体制をより前進させることが可能になったわけです。そこで天武天皇は、地方行政区画の整備や班田収授のための造籍・測地を進め、さらに再び私有民を禁止します。さらに、684年に八色の姓(やくさのかばね)を制定します。その導入の狙いは豪族達をランク付けすることにありました。例えば、真人(まひと)は天皇の近親者のみに与えられ、朝臣(あそん)はそれまで天皇の子孫と称していた豪族に与えられます。あとは、豪族達に出自によって割り振りましたが、このように天皇家一族を上位のランクに位置づけました。しかし片方では、大和政権の時代から服属した豪族達に鏡や太刀などの宝物を献上させ、石上神社というところへ保管してきましたが、これを返還することで融和策を採り、また積極的に朝廷の役人になろうと呼びかけたのです。さらに、飛鳥浄御原令という日本初の統治体系に関する法令を制定しました。天武天皇は、これまで「大王」だった称号を、実はこの段階で初めて「天皇」と改めました。これは、唐の高宗(位650~683年)が自称していたもので、中国の伝説上の帝王の1つのことでもあります。これを聞いて「格好良いなあ」と思ったのでしょうか。唐と親交を保ちつつも、ただの朝貢国ではないぞ、という意思表示もあったのでしょう。それから、これまでの土下座のような礼の仕方から、現在私たちがしている立ったままで礼をする形に改めたのも、天武天皇でした。さて、天武天皇体制により天皇家主導の国造りは落ち着いてきたのでしょうか・・・・・。《続く》