京都で秀吉巡り5
秀吉巡りウォーキングは豊国神社を通り過ぎ、すぐ北側にある“方広寺”から“大仏殿跡”の前を進み、五条坂から“ねねの道”を目指します。【方広寺鐘楼】重要文化財“豊国神社”のすぐ北に、豊臣家滅亡のきっかけとなった“鐘楼”があります。江戸幕府を開いた徳川家康の最後の気がかりは、徳川政権の完全な確立を阻む可能性のある豊臣家の存続でした。関ヶ原の合戦以降、浪人たちにとって天下の堅城大坂城に住む豊臣秀頼を担いで幕府に敵対し再起を図りたいという思いは強く、これに応じた形で豊臣家は大量の浪人を雇いいれ大坂城に入城させ戦備を急いでいました。また豊臣家は、幕府への断り無しに朝廷に官位を奏請するなど、挑発行為ととも取れる行動を起こしていました。そして、これが両者に決定的な溝を作ってしまうことになります。1614年、家康は大坂城に入城した浪人たちの一掃と、豊臣家攻めを決意し、その機会をうかがっていました。そこで、利用されたのがこの方広寺の鐘楼でした。顧問僧の金地院崇伝や儒者の林羅山、京都所司代の板倉勝重、側近らとはかって、豊臣家が再建した方広寺の釣鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を分断し豊家を繁栄させようとの呪詛によるものだと決め付け、いいがかりをつけたのです。そして、これをきっかけに大阪冬の陣へと突入していくことになります。 「国家安康」「君臣豊楽」の文字を探しましたが分かりませんでした。この鐘は大きさが日本最大級であり、知恩院や東大寺の鐘と共に日本三大名鐘になっています。方広寺といってもご存知の方は少ないと思いますが、実は豊臣秀吉が1586年にここ京都・東山に、奈良・東大寺をしのぐ大仏と大仏殿を造立した寺院なんです。兵火で東大寺の大仏殿が焼失し大仏が半壊した29年後のことでした。しかし、すぐに慶長伏見地震で方広寺の大仏も大破してしまいます。秀吉の死後、大仏殿まで失火で焼け落ちてしまいました。【大仏殿跡】秀吉の子、秀頼が1612年に大仏殿を再建します。秀吉・秀頼親子が造立に力を注いだ大仏の名残は、今も周辺に残っています。方向寺には、国重要文化財となっている鐘楼のほか、大きな風鐸(ふうたく)の破片や大仏の眉間にあった仏像など、秀頼の大仏にまつわる品々が伝わっています。寺の東側では13年前、大仏殿の柱跡や大仏の台座跡が発掘で見つかり、公園「大仏殿跡緑地」として整備されました。大和大路沿いに南北約260メートルにわたって連なる巨石を並べた石垣(石塁、国史跡)は、大仏殿を囲んでいた回廊のもの。中には高さ4メートル、幅5.3メートルの巨大な岩もあり、かつての壮大さをしのばせるものです。近くの三十三間堂の太閤塀と南大門は、秀頼が三十三間堂を大仏殿に取り込もうと築いたものだそうです。豊臣家が京都にこれだけの大きさの寺院を建てていたなんて知らなかったですねぇ。 では、五条坂に向かいます。《続く》