こんばんは
長浜の最後は"大通寺"です。長浜八幡宮からは北西の方向にあります。
【大通寺】
鳩のいるお寺で親しまれているそうですが、境内で工事のためか鳩はいませんでした。ここの山門は、東本願寺の門の縮小版で、東本願寺の門が焼けたときは、ここの門を元に復興されたということですが、工事のため見ることはできませんでした。
また、ここにある台所門、長浜城の大手門を移築したものと言われ、他にも伏見城から移築されたものがあるなど、非常に歴史的には重要な遺構が現存する貴重なお寺だといわれています。
真宗大谷派(東本願寺)の別院で、正式には無礙智山(むげちざん)大通寺といいますが、一般に「長浜御坊」の名で呼ばれています。本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりで、そのころは、長浜御堂と呼ばれていました。安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され、御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築されたということです。
伏見桃山城の遺構と伝わる本堂や大広間、長浜城の追手門を移築した脇門(薬医門)など、建造物の多くが、国あるいは市の重要文化財です。県指定の文化財としては、南北朝時代の銘を刻んだ梵鐘があります。客室(含山軒、蘭亭)内部の障壁は、狩野山楽・山雪、円山応挙によって描かれており、その庭園は国の名勝に指定されています。
含山軒庭園は、伊吹山を借景として鑑賞式枯山水。含山の名はこれに由来しています。前方に盛砂を敷き、中ほどに亀島を配して、伊吹山から枯滝に水が注いで見えるよう設計されており、優雅な名園といわれています。
【大通寺の前にある風情ある表参道】
【秀吉・光成出会いの像】
湖北の地で一国一城となった羽柴秀吉は、狩りなどをして茶を一服したとき、そのときの茶がぬるく、うまかったのでもう一杯茶を要求、次に出された茶は少し熱く、さらに茶を要求したら今度は熱いお茶が出されたといいます。このときに茶をもって来たのが佐吉少年、のちの石田三成です。秀吉はこの気遣いを見込んで佐吉少年を召し抱えたといわれています。
この話、秀吉が信長の草履を温めた話と似ていて、秀吉は佐吉少年に自らに似たものを見たのかもしれません。
その石田光成も関ヶ原から2週間が経った10月1日、京の都を引き回された後、六条河原で処刑されました。享年40歳。なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成はこう答えました--「私はまだ再起するつもりだった」。
※三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたといわれています。
死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男です。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきましたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っています。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがありません。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だったのでしょう。
関ヶ原合戦後、徳川方による西軍残党の追及は厳しく、毎年のように宗門改めが行われ、石田三成の出生地である石田村(現長浜市石田町)は、「石田の残党これなく候」と誓約を強いられてきました。
石田の苗字を名乗れなかった石田一族は、やむなく一居姓に変じたと伝わっています。
ちなみに、現在長浜市に一居さんは38軒、その内の29軒が石田町ということです。
「石田」という文字を分解してみると
石 → 「一」 と 「ノ」 と 「口」
田 → 「十」 と 「口」
これを順番に足すと、一ノ口十口。
一は「一」、ノ口十口は「居」になります。
どうですか、石田が一居に変身します。
このようにして、石田という姓を守ったのでしょうね。
【現在の長浜駅】
昔の繁栄と現在の町おこし、二つのことを感じながらの長浜での二日間でした。
長浜から竹生島観光船が出ています。次は竹生島に行きたいですね。
《終り》