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引用―
「『まだ遠くに離れていたのに父親は息子を見つけて憐れに思い走り寄って首を抱き接吻した(ルカによる福音15章20節)』 の『憐れに思う』と訳されている単語は、原語のギリシア語では『内臓、臓器』などを表す言葉を動詞化したものです。つまり『憐れに思う』とは、対象を、自分の外にではなく内側にいる存在、しかも自分を生かす臓器であると感じること。その人が苦しみ傷ついていれば自分の命に関わる苦しみ痛みだと感じます。」 よき家庭の聖書たまてばこより これを読んで、聖書のこの場面に登場する父親が感じた、「憐れ」と訳されている感情の本質について考えた。 あたしは「憐れ」と聞くと単純に「憐憫」とか「同情」といった単語を連想する。それにあまりプラスのイメージは無い。自分の心は痛むけれど、どこか他人事―…のようなイメージだ。 しかし聖書で「憐れ」と訳されているこの単語はそういう意味ではなく、もっと深く、自分の事を思うのと同じように相手の事を思っているわけで。なんだか聖書らしいが…。 この場合の、こういう風に他人の事を自分の内側の事として感じるのは、「感情移入」よりも深いことなのだろう。 現代、こういう意味で使われる日本語の単語って何かあるのだろうか。 もし無かったとしたら、日本には元々そういう感情が無いという事になるのかもしれない。言葉はその国の歴史が培ってきたあるがまま全ての性質、国民性を表していると思うから。 ぇ―…なんだか文章がちゃんとまとまらないまま断念しますが、要はとにかく、「『憐れに思う』と訳されている単語は原語のギリシア語では『内臓、臓器』などを表す言葉を動詞化したもの」だという点にへぇ―と思い、言いたかった、ただそれだけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010/02/02 02:10:12 AM
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