『どくとるマンボウ青春記』より
先日ニュースを見ていたら、北杜夫という作家が亡くなったと報道されていた。私はこの人の作品を読んだことはないのでよく知らないけれど、彼の代表作『どくとるマンボウ青春記』について紹介されていて、その中で取り上げられていた一節が印象に残った。 「しかしながら、やがて私は愛を信ずるようになった。この世に拡がる虚無にもまして、いや、それと織りなして信ずるようになった。人間とは、まして若者とは、見ようによっては哀れなはかない存在である。その中から、一つの智慧、一つの愛情を生もうとする意志だけが、私らを宇宙のみなし児から救ってくれるのかも知れぬ。今の年齢となって、愛についてもうひとこと述べれば、われわれは成長するにつれ各種の愛の段階を知ってゆき、かつてのそれは愛ではなかったと言いがちだが、どんな幼稚な愛にしろ、その個人の一つの時期にとっては、それぞれに本物の愛であったことに変りはない。なにも狂熱的な恋愛のみが真の愛でもなければ、長年の夫妻の地道な愛のみが真の愛でもない。 そしてまた、一個人に対する愛は永続するものではない。永遠の愛というものがあるように錯覚されるのは、われわれの寿命に限りがあるからである。とはいえ、人間にとってもっとも貴重なひとつの心の持ち方、それが愛であることは間違いなかろう。もう一つつけ加えれば、愛し愛されるということはたしかに素晴らしいことではあるが、自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。たとえ、それが完璧な片思いであろうとも。」過去を振り返り当時の自分の感情を思い出して、当時のそれは真の愛じゃなかったとか錯覚だったとか言う事もあるけれど、それは単なる後づけでしかない。その時のその感情は、きっと確かに愛だったんだ。その時の自分にとっては、紛れもなく本当に愛だったんだ、ということ。そして自己を高めてくれるのは、受動的ではなく能動的な愛だけなんだ。自らが愛するという感情を持って人と接するからこそ、結果的に自己を高める何かが生まれてくる、ということ。そういうことが、私の心に深く浸透した。