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カテゴリ:ほんわか介護 家庭と介護
ジェンダーフリーの先駆者!! イエス・キリスト様
マグダラのマリアは私の知識では、娼婦だと思っていました。 思春期に聖書を読んだので、娼婦=不潔と思いました。 あるところで、人々が石で娼婦を打とうとしていると、イエスは「このなかで罪のない人が彼女に石を投げなさい」といったそうです。すると、誰も石を投げなかったといいます。 ほんの小さな罪も犯さなかったと自信を持って言える人はまことに少ないでしょう。 10戒の教えでも、思っただけでも罪になるとあったはずです。よこしまな気持ちをいだかない人がいるでしょうか。行為を起こさなければ、現実の罪にはなりませんが。 (ところで一時話題になった共謀罪というのは、みんなで悪事を話し合っただけで罪になるとか・・。) その娼婦がマグダラのマリアだと思っていましたが、違うようです。マグダラのマリアは裕福な家の出身で、若い頃(使徒ヨハネの婚約者だったという説もあります。ヨハネがイエスの弟子になったため、婚約が破棄されたので自暴自棄になったと言う説も)羽目を外して7つの大罪を犯してしまいました。イエスは彼女を癒し、罪から救い出したので、彼女はイエスに付き従い、イエスが十字架にかけられたときも側にいました。イエスの復活を目撃したただ一人の人です。 ベタニヤのマルタとマリア・・。 マルタはマリアの姉です。このマリアもマグダラのマリアという説もあります。 イエスはマルタの家を訪れました。 マルタはイエスをもてなそうと、掃除をしたり、料理を作ったりと大忙しです。ところが妹のマリアはイエスの側に座り、イエスの話をうっとりと聞いています。 ちっとも姉を手伝おうとしません。 マルタは「ちょっとマリア、ぼやぼやしないで仕事をしなさい!!」といいました。イエスにもマリアに仕事を手伝うように言ってくれと頼みました。 すると、イエスは今やらなくてはいけないことをマリアは行っていると・・ すなわちバタバタ家事をやるのはいつでも出来る。今は自分が為になるお話をしているので、それを聞くことがよいことだ・・。 と、これでは男の人はかってだと思えます。イエス様と付き従い、讃えてくれる女性の方がかわいいということです。 家事は所帯じみた姉さんがやりなさい。 ここには重大な意味が隠されています。イエス以前の宗教は男性が執り行い、女性は神に仕えることは許されていませんでした。イエスの弟子は全てが男性です。しかし、このマリアは家事をせず、イエスの教えをじっと聞いています。これはイエスの弟子であると言うことを現しています。 マルタはイエスを尊敬していましたが、マルタのイエスへの仕え方は労働奉仕であり、陰から支えると言う形なのでしょう。 これは女性の二つのあり方を現しています。ただバタバタひたすら家事をしたり世話を焼いたりすることが正しいと考える女性。 家事に気は利かないけれど、男性が、というか相手が今求めていることを理解できる女性。黙って側にいて欲しい・・とか、自慢話を嬉しそうに聞いて欲しいとか・・。で、どちらが男性に好かれるか・・というと、残念ながら後者です。 男性は今欲しい物がいま欲しい物です。お腹が空いていれば、ごちそうではなくあり合わせの茶漬けでいいし、話を聞いて欲しければ今聞いて欲しい。 さて、私が働いていたある会社では別にマルタという介護保険外のヘルパー派遣組織がありました。 キリスト教の素養の少ない私はマルタってよく知りませんでした。 あるとき、新人のヘルパーがマルタってなんですかと聞きましたら、社長が一生懸命働かないという意味だと言いました。 マルタは一生懸命働いた方の人です。そのことでイエスからたしなめられました。マリアははマリアの分で奉仕をしているので、うるさく言わないように・・。というような意味ですね。 マルタの会社の方々は一生懸命働いていました。 イエスはマグダラのマリアを弟子としてだけではなく、どうも妻として扱っていたようです。 マグダラのマリアはイエスの子を身ごもっていたともいいます。 ダヴィンチコードはそのマグダラのマリアと子供を2000年守り続けた組織と教会との確執? がテーマとなっています。 ユダの福音書や、マグダラのマリアの福音書も発見されています。そのことにより、いままでの聖書の解釈が変わってくるのかもしれません。 こうしてみると男性上位だった宗教界に女性も神の教えを学び救われる存在であると、女性の復権を唱えたのはイエス・キリストだったといえます。男女平等に弟子を取り、また妻は自分の教えを後世に伝えていく大事な存在として、妻の地位も大事にしました。こうしてみるとイエスはジェンダーフリーの先駆者であったと考えられます。 イエス・キリストの時代、大きく女性側にジェンダーフリーの針が振れたのに、キリストの死後は、力のある男性の弟子がイエスの妻帯を否定し、マグダラのマリアは娼婦であると間違えた認識を私たちに植えたのかもしれません。 娼婦は太古から有る女性の唯一の職業でした。家事は妻がしますが、ぬかみそ臭い妻に飽いた男達は娼婦の元にでかけていきました。娼婦館はさながらサロンのようです。男性たちは社会や政治のことや仕事のことを話し、其処にいる女性もいつか知識が付いて男性と互角に話をするようになりました。聞き上手で、頭の良い女性は男達にもてたでしょう。ちょうどマグダラのマリアのように・・。 介護問題と関係ないようですが、介護を担うのは女性が多いと言うことから、なぜ女性が家庭を守り、家族の世話をするようになっているのか、これは地球上の殆どの国が男性上位であることの不思議さにつながっていきます。 介護も家事も育児も、男女に区別はなく、そのとき出来る人が最適と思えることをするのが正しい・・。 これは、イエスの教えでもあります。 肩肘張って介護をするのではなく、必要なときに必要なことをする・・。それが、よりそい抱きしめるだけでもよい・・。側で話を聞き、話をするだけでもよい・・。 辛いことや不得手なことは介護保険の力を借りれればよい。これが介護保険の精神ではないか・・。 と今、思いつきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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