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A氏:司馬氏は、ノモンハン事件をテーマに昭和の陸軍が行き着いた姿を描こうとした。 文芸春秋の編集者だった半藤一利氏は70年代初頭、「司馬さんから『ノモンハンを書きたい。手伝ってくれるか』と頼まれた」と語る。半藤氏は、第26連隊長として事件を体験した須見新一郎氏を紹介し、最初の取材は長野県の須見宅まで同行もした。
私:だが、敗戦時に陸軍の関東軍参謀だった瀬島龍三氏と「文芸春秋」(74年1月号)で司馬氏が対談したのを理由に、司馬氏は須見氏から絶縁された。軍幹部の愚劣さに苦しんだ須見氏には、元参謀と対談した司馬が許せなかったという。 例えば、ノモンハンで関東軍の作戦主任参謀だった服部卓四郎は41年7月に大本営作戦課長に、関東軍参謀だった辻政信は42年3月に同課作戦班長に就任。ガダルカナル島の作戦を指揮した。
A氏:ノモンハン事件から何も学んでいなかったのだね。
私:司馬氏が苦しんだのは、取材先との関係より、この国が抱える構造的な何かだったのではないか。執筆の見通しを尋ねた半藤氏に、司馬氏は「その話は一切しないでくれ。ぼくがノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う。当時の日本陸軍のトップの頭の悪さと、国家保全への感覚のなさに、精神衛生が悪くなってしまう」――。 司馬氏は対談や随筆でそう繰り返し、長編小説で「昭和」を描くことはなかったね。
A氏:96年2月、司馬氏は死去。半藤氏は霊前で合掌し「私が書きます」と誓った。作品「ノモンハンの夏」が約1年後に完成した。 半藤氏はこの本で「ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、(中略)人は過去から何も学ばないことを思い知らされる」と結んだ。
私:司馬氏は、「坂の上の雲」でも203高地の戦い方の稚拙さで多くの兵士が死ぬことに耐えられず、しばしば呆然となって筆をおいたという。 ましてやメチャメチャにソ連の戦車にやられ、多くの戦死者を出したノモンハン事件を書くことは、気が進まなかったのではないかね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.14 15:52:10
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