支倉常長の墓参り 其の三
16~17日にかけて、伊達家の霊場松島に行ってきました。メインは、松島山内の和尚さんが約50名総出で行われる「大施餓鬼会」という供養祭です。この行事は700年以上前から行われているそうです。松島四大観のひとつ「富山-とみやま」に’大仰寺-だいぎょうじ’がありますが、たぶんそこの住職さんだと思われますが、1時間ぶっ通しでひとりの和尚さんがお経を音読します。息継ぎ以外、一度も途切れることなくお経は続きます。風がそよとも吹かない熱帯夜で、その体力、気力は尋常じゃないと思いながら聴き入りました。 瑞巌寺の参道ですれ違った喪服姿の踊り子さんたちは 支倉常長を供養する「郷さんさ」という曲で踊る、大郷町の「郷乃会」の方々です。灯篭の前面に常さんの肖像画があります。「郷さんさ」はなんともいえないせつないメロディで、松島中に響き渡りました。富山・大仰寺には、常さんを迎えに行った横沢将監の代々の墓があります。去年の大地震で墓石がガタガタに崩れていました。将監さんは、仙台藩の土木エンジニアで、治水工事などで活躍した人です。泉区の将監という地名はこの人からきてます。なぜ泉区を所領するこの一族の墓が、松島の秘境といえる富山・大仰寺にあるのかずっと不思議でしょうがなかったのですが、謎が解明されつつあります。(いずれ書きます)将監さんは、常さんを連れて帰る途中で、政宗公の命でフィリピンのマニラに3年間滞在しています。(仙台にも禁教令が及んで危なくなったため、帰国のタイミングを様子見してた)サン・ファン・バウチスタ号は、太平洋を2回往復したことになります。それは当時、仙台藩の造船技術の高さを世界に知らしめました。マニラで、フィリピン総督から「軍艦にしたい」と懇願され、船を売却しています。横沢将監と遣欧使節の一行は別の便船で、無事長崎経由で石巻月の浦入りしました。将監さんはマニラ滞在中に、キリシタンの洗礼を受けましたが、帰国後すぐに政宗公の命で、泣く泣く棄教させられました。~つづく~