神奈川県真鶴町岩の謡坂
6月27日、カミキリムシ退治をして帰途につきました。
帰り道に「土肥道」というバスの停留所をとおります。
真鶴駅から岩行きのバス路線に停留所はあります。
突然にでてくる「土肥」の名、何で「土肥道」とつけられたのか。
どうしてこの停留所に名付けられたのか、知りません。
その隣の停留所が「謡坂」(うたいざか)です。
岩海岸へ下る坂にかかったところ、道がカーブしたところにあります。
「うたいざか」、言い習わしていると、別段問題も感じませんが、
なかなか粋な名前がついているなぁ、と感じます。
(6月27日)
そこに石碑があります。苔むしていて簡単には読めません。
横書きに大きく「謡坂」の文字だけはわかります。
何で謡坂(うたいざか)なのか。それが何で記念されるのか。
古い石碑をがまんして読みとおすには、時間がかかります。
私も読みとおせていません。
そんなためもあってか、分かりやすい簡素版の小さな石碑が添えられていました。
石碑の石碑が、隣に新たに出来ていました。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、髪もバラバラに数人になって箱根の山中を逃げたとのこと、『平家物語』(卷第五 早馬)にでてきます。
平家に対して追討の旗は掲げたものの、最初の戦いは惨惨だったようです。
神奈川県湯河原から真鶴にかけては、当時は土肥実平の領地だったとのこと。
平家方の探索から、土肥実平がかくまい逃亡をブロデュースしたとのこと。
そのあたりを『源平盛衰記』の卷第二十から、第二十二あたりで紹介されています。
「土肥道」とは、このあたり一帯が土肥氏の領地であったことから、
土肥氏の道、ということでしょうか。
古い細道が、今はバス通りになっていますが、以前にはあったということでしょう。
残念ながら、確かめるすべがありません。
そして、よほど嬉しかったのでしょう。卷第二十二にでてきます。
平家方の大勢に追い立てられて、頼朝たちは、まさに命からがら、
何度も死線をくぐって、九死に一生を得たのです。
かすかにみえる房総半島をめざして、この真鶴町岩の海岸から、
かすかに見える房総半島の対岸、千葉の方へ、小舟で脱出をはかりました。
それだって、ここから小舟をこいで東京湾を突っ切るなどということは、
無謀なことです。たいへんな船出だったはずです。
それでも、迫りくる追手から逃れるためには、この道しかなかった。
きっと海に詳しい漁師の助けがあったのでしょう。
そうでなければ、とても無理です。
とにかく、一つの大きな危機を脱出できたこと、
前途に何があるかどんなに不明でも、これまでの状態よりかはきっとよくなるはず、それだけは確かなことだったようです。
実平は、もちろん頼朝も、よほど嬉しかったのでしょう。
本当に歌い踊ったんだろうと想像します。
地名となって「うたいざか」の名前が、伝わり残るくらいですから。
この危機からの脱出が、鎌倉幕府が誕生する前の、頼朝のひとコマです。
そんなエピソードが伝わっている、みかん畑のある郷里です。