知らぬが仏の、みかんの初仕事
元旦、八王子をお昼発で、小田原のみかん仕事に出かけていました。
小田原のみかん園では、テレビも新聞もありませんから、
いわば世間から隔絶されてます。
だから、午後4時の能登半島の震災は知らなかったんですね。
翌日の朝のラジオニュースで知りました。
これは東日本大震災級の震災じゃないですか。
しかも、やはり原発の立地している箇所での震災です。
政府にたいしては、「それみたことか」ですが、
国民の被災した人たちの生活からしたら、そんな水かけのような議論ではすまない問題です。
責任感の欠如した政治の結果ですが、そんな指摘をしてたことで、現実の打開はすみません。
そうした震災事態をラジオで探りつつも、みかん仕事をしてきました。
これは、「西部開拓史」の小田原・早川版です。
みかん園は、一年でも放置されると、雑草に覆われてみかん畑は喪失します。
2-3年が過ぎると、元の山林に、雑木林にかわります。
その雑木林を、ふたたび畑にかえようと、二人のボランティアが自然の力と格闘しています。
早川のみかん農家も高齢化して耕作する範囲が狭まり、耕作放棄地が広がっているわけです。
この開墾も、高齢化した農家では無理ですから、援農ということの一つの形です。
88歳の園主さんからは「ケガをしないようにやってください」とのメッセージです。
ギリギリの努力をしてきたなかでのこうした結果ですから、農家に責任を問うことなんてできません。
政治の力がちっとも働かない中で、個々人のボランティァがサポートしている次第です。
少しは政治の力は何とか働かないものでしょうかね。戦後80年のこれが結果です。
これ早川の30パーセント余の耕作放棄地の姿であり、全国の一般的な農家の声なき声です。
当方の仕事は、元旦の夜に雨が降ったため、2日午前はみかんの収穫は出来ませんでした。
かわって、この時を使って、みかん園の枯れ木の除去することでした。
みかん小屋の上あたりのみかんの木ですが、
みかんが赤いのは、成熟の為でなく木が枯れてしまったためです。
木が濡れてみかんの収穫が出来ないこのときに、その時を使て枯れ木・枯れ枝の除去です。
みかん園の外側の、右隣に移しました。
枯れ木というのは結果です。なぜ木は枯れたのかが問題ですが。
みかんの木は、いつまでも木にみかんをつけていると、みかんが養分を吸い続けていて、そのために木が疲弊していしまうわけです。
この時期の一番の手入れは、まわりの農家がそうしているように、12月末までに『荷下ろし』-みかんの木がら果実をおろして、木を休ませることです。
一つの枯らしてしまった原因は、収獲すべき時に、それが出来ていなかったことです。
私などもそれがわかってはいるんですが、
なかなか手が及ばない、収獲への集中力が弱いということです。
しかし、今年は今回も、1月4日というのに、援農の方が2人来てくれました。
一つの畑について『荷下ろし』を果たすことが出来ました。
みかんの木も「ほっと」していることと思います。
しかし、まだまだ、手つかずの畑が残っているということです。
作業を終えて援農の方がつぶやいていました。
『ここは宝がいっぱいですね』と。
その通りなんです。
石垣山は「宝の山」なんです。
しかし、高齢化した農夫は体力の限界で働いていて、その宝のなかでアップアップしているんです。
宝のはずなのが、残酷労働の難行苦行として、そけれを実感することはきません。
もしもできるとしてら、それは援農者の力添えがあってこそ、仕事に笑いが出て来て、名実ともに宝の山ということになるんですね。それが欠落しているわけです。
そんな1月4日でした。
社会の動きからは隔絶された3日間でした。
震災も知らなかったんです。
しかしですよ、
ここで頑張ることが、しいては被災地の復興につながるものと思っています。
ここで手を弱めてしまっては、支援する力もそがれると思い、頑張っている次第です。