全て
| カテゴリ未分類
| 本
| 仕事
| 栄養士
| 那覇
| 八重山諸島
| あだち充
| ドイツ
| 吉里吉里人
| ご登録者リレーエッセイ 自慢話編
| SNOOPY
| オフ会
| 弟
| 沖縄
| song
| 松本哲治 浦添市長
| 千葉
| 木村拓哉
| 楽天日記開設記念
| パナリ(新城島)
カテゴリ:沖縄
去る7/29(土)お亡くなりになられた対馬丸生存者です。
―対馬丸に乗船する前、暮らしていた村ではどんな日々を送っていましたか? 川の傍に生まれたので、小さい頃から泳ぎは得意でしたし、釣りも好きでした。 海水の混ざりあう下流まで行くと美味しい魚がいっぱい釣れて、 いとこの時子とは同い年だったこともあって、よく一緒に遊んでいました。 私が入学したときにちょうど、尋常小学校から国民学校になって、 疎開の話は校長先生や区長から通達されたようです。 当時の私には、軍艦と貨物船の区別もつきませんでした。 二段重ねの木造の寝床が並べられた船室は、立って歩けないほどの すし詰め状態で、バケツに入ったぼろぼろの食事が配られました。 疎開は原則3年生から6年生とされていたようですが、それより幼い子もいて、 子どもたちが騒ぐのを静かにさせるので先生たちは手一杯でした。 ▽平良啓子さん: 「だから私が生きる意味というのは、生きている私はみんなの代表で生きているわけだから、 こういうことが二度と起こらないように、戦争をしないように」 親族によりますと平良さんは29日、大動脈解離のため名護市内の病院で亡くなりました。 88歳でした。 平良さんとともに語り部として活動してきた対馬丸記念会の高良政勝代表理事は、 「当時の記憶を鮮明に語れる最後の一人だった。早すぎる死に呆然としている」と 突然の訃報を悲しみました。 79年前、アメリカ軍の攻撃を受け沈没した対馬丸から生還し、平和の尊さを伝えるため 自らの体験を語り続けてきた平良啓子さんが29日亡くなりました。 88歳でした。 国頭村出身の平良啓子さんは、太平洋戦争の末期の1944年に疎開のため 対馬丸に乗船しました。 対馬丸は沖縄から長崎に向かう途中にアメリカ軍の攻撃を受けて沈没し、 平良さんは6日間にわたりいかだで漂流し九死に一生を得ましたが、 一緒に乗船した兄と祖母、いとこを亡くしました。 対馬丸の犠牲者はおよそ1500人にのぼり、戦後、平良さんは命ある限り 平和を紡ぎたいと県の内外で自らの体験を語り継いできました。 姉妹Blogも、どうかよろしくお頼み申し上げまぁす。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[沖縄] カテゴリの最新記事
こんばんは。
私も訃報を見て驚いています。 個人的に対馬丸の事を調べて、日本郵船(対馬丸の昔の保有会社)にまで資料請求しました。それだけに、ショックです。 ご冥福をお祈りいたします。 (2023.08.15 19:33:16)
ブログ訪問ありがとうございます。大分戦争の語り部の方が少なくなっている今、記録はしっかりとしておかないといけないと思います。平良様のご冥福をお祈りいたします。
(2023.08.19 14:12:42)
おはようございます。
戦争体験者の方々がどんどん少なくなっていきますね。 平和の大切さと不戦を守り抜くことの重要さ、若者に伝えていかなければならないことですね。 平良啓子さんのご冥福をお祈りします。 (2023.08.24 08:40:47) |
|