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テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:遠刈田系
朝倉英次の「ドンコロ遊びのこと」 先にこけし用語辞典で「どんころ独楽」を書いたが、たまたま古い「こけし手帖」60号(1965年8月)を見ていたら、朝倉英次(1911-1973)が「ドンコロ遊びのこと」を書いていた。 内容は「どんころ独楽」とまったく同じであるが、より具体的であるので、それをやや要約して紹介しておく。
ドンコロ遊びのこと 朝倉英次 私が一年ばかり前に、昔を偲んで製作した独楽はドンコロ遊び、一名睦遊び(ムツマシ)とも言う。睦ましくしかもひとたびたのしい会が開かれると、それはそれは丁半などの騒ぎではなくなる。ことに新地、七日原、横柴などで集まりがあると、最初は静かに始められているが、だんだん熱気をおびて力が入り、数十軒はなれているところまで聞える程大騒ぎになる。昔の警察官などは賭博があると思っても、早く戸を閉めて巡邏などをせず寝てしまう。今とは違いのんきなものだった。何の楽しみもない(村びと)は、僅かなお金を持って出かけて行く。どんな風に始められるかというと、おもにお通夜の晚は、必ずといってよい程会が開かれる。だから好きな人は、今晩は必ずあるぞと直感する。そして不幸のあった家とは無関係な人まで、ぞくぞくと集まり集められて来る。この独楽は何時の頃から始められたかは、古老に聞いたことがなかったが、私の考えでは、いくら古くとも明治初年頃かと察しられる。私の家に古くからあった独楽は、中をくり抜いて、丁度お茶壺のようにし、廻すのに軽くしたものがあった。その絵と言い作りと言い立派なものだった。しかし二人挽ではああした作りは出来ないと思う。だから明治二十年以降だろうと考えられるのである。なんと言っても一番盛んだったのは、大正末期から昭和の初め頃だろうと思う。不景気になると賭博が流行すると言われているが、その通りで、一晩のやりとりはその場にあるお金は〆て五、六十円だったろう。こんな道具が、なぜ遠刈田周辺にのみ流行したのだろうとなると、それは木地屋だけが作れるものだからである。当時一日働いて一円五十銭が最高の頃であったから、一晚に三円から五円も負けたらそれは大きいものだったろう。私はその頃子供だからその場を見ただけであるが、一晚中朝まで続くのである。私のおやじはこのあそびがきらいで、宿をするのをとても嫌った。しかし近所の者で好きな人があったため、度々宿を貸したことがあったが、一晩中眠れなくて 困ったものだ。 この独楽のあそび方を紹介しよう。形は六角になっていて、一富士、二タカ、三なすび、四ダルマ、五だんぽ(虚無僧)(だんぼとは昔この地で、士族でなくとも名字帯刀をゆるされただんな又は地主のことを言った。)、六てんす(西行)と呼んだ。独楽と紙の絵は一致している。それで自分の好きな絵に思い思いに六面の角の中にお金を置く。そしてやはり誰か ドウ元(独楽を廻す責任者)となって始められる。たとえば六面に十銭ずつ六か所にあるとすると、どこが出てもドウ元が十銭だけ儲かることになる。かりに富士が独楽の富土と一致したとなると、自分の置いた十銭にあたったのだ。必ず誰に出ても四倍になるのだから 独楽元から四十銭貰うことになる。あたれば必ず四倍になること。あたった人が次に独楽元になる。そのとき嫌なら人にまかせることが出来る。このようにして、運のよい人は独楽元を引受けて、たくさん儲けることが出来る…。
現にヤフオクで落札されたのも朝倉英次のもので、この記事を証明したものとなっている。つまりどんころ独楽は、木地玩具というより賭博道具でそれを作るのも木地屋の領分だったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年09月30日 03時09分18秒
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