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カテゴリ:顕正会
【日蓮大聖人の御名を唱え奉る】
ゆえにこの御本尊を信じて日蓮大聖人の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れば、 「名は必ず体にいたる徳あり」で、自然と体である御本尊・日蓮大聖人と一体になり、凡夫の我が身がそのまま成仏させて頂けるのです。 「名は必ず体にいたる徳あり」てないでしょ。 南妙法蓮華経は、羅什が恣意的に漢訳したことばです。 そして大聖人と一体になれるて、やだよな。 下痢で苦しんで亡くなってるんだよ。 最悪な死に方でしょ。 それと、凡夫がそのまま成仏で普通であり、当たり前。 凡夫だから仏になる可能性がある。 これが、修羅や餓鬼、天人では仏になれない。 凡夫である人だから仏になるチャンスがあるんだよね。 【仏様が宿って下さる】 さらに大聖人様はわかり易く松野殿女房御返事に「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う」ともお教え下されている。 ここに仰せの「釈迦仏」とは、本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人の御事です。 御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫の濁った心に仏様が宿って下さる。日蓮大聖人が宿って下さるのです。大聖人様が心に宿って下されば、その人はもうただの素凡夫ではない。 「濁水心無けれども、月を得て自ら清めり」(四信五品抄)と。 どれほど濁った水でも、月が映れば自然と清んでくる。それと同じように、欲と瞋りと愚癡の三毒で濁った凡夫の心中に大聖人様が宿って下されば、自然と心法も変わってくる、諸天もその人を守護するようになる。 ゆえに、現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得るのであります。 「本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人の御事です。」て嘘はいけない。 そのまま、釈尊に決まってるでしょ。 なんで無理矢理日蓮としたがるのやら。 生きている日蓮が居て、日蓮の魂が宿るて、憑依したってこと? それってやだよね。恐いよね。まして、下痢で苦しんでいる日蓮の魂など、苦しみに悶えている餓鬼の命でしょ。 「どれほど濁った水でも、月が映れば自然と清んでくる。」て清んで来るとはどの程度を指す意味かだね。 そして元の濁った水もどれぐらい濁っているかだ。 すごく濁った水は、放置していて遺物とかが沈殿しても、霞がかったように濁ってます。 月が映ろうが濁った水は、濁ってます。 その辺の今はないだろうが、どぶ池の水をくんできて月を写して清くなるか実験してみればいい。 そしてその後に、その水を飲んでみてください。飲めるものならね。 「現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得るのであります。」 これ基準がないんだよね。そのアバウトなところがミソ。 「現世には生活が守られ」とは、生活が守られる。 なにを基準にしている? 三食ご飯が食べられる。雨風がしのげる。のが基準か? 顕正会員なんか、二食しか食べられない人とか、一食しか食べられない人もいるでしょ。 ぜんぜん、守られているとは言えない。 生活が守られるとはどの程度なのか教えて貰いたいね。 雨風寒さをしのげて、ご飯が食べられるだけで守られていると思う人もいるでしょ。 淺井昭衛みたい贅沢をしてこそ、守られているという人もいるでしょ。 雨風寒さをしのげないけど、ご飯にありつけるだけで有り難いと言う人もいるでしょ。 守られる基準を明確にして貰いたいよね。 「臨終には成仏の相を現じ」にしても、客観的な統計がない。 証拠もない。 念仏に執着していた親が亡くなったが、死後題目を唱えて回向したら、顔色が変わり、生仏させていただいたとかあった。 他にも多々あるよね。 前世の罪障があるから正法を保たないで亡くなった。 ましては謗法の宗教を保ったまま亡くなった。 しかし、題目を回向しただけで成仏させていただいた。 なら、自力の修業は要らないではないか。 謗法を保っていても成仏させてくれるんだからね。 罪障をいくら積もうが問題がないてことでしょ。 なら日蓮上人が他宗の人を地獄に堕ちて不憫と言う。 それなら、末法の本仏が慈悲を持って回向して成仏させてあげればいいではないか。 でも、日蓮上人は、怨むなよ。日蓮を信じなかったからと無慈悲な行動をとっている。 顕正会員が回向ししただけで成仏するのなら、信仰などいらないだろう。 我ら成仏させる隊とか言って、亡くなった人に回向して回れば良いだけ。 「死後の生命も大安楽を得る」にしても、死後の生命とはなに? しんだら、生命活動はお終い。 生命の定義も人間界の肉体を持った物体に対して使う言葉ではないのか? で、大安楽をと言うが、それも御本尊に守られてというのが前提条件でしょ。 仏になろうが、御本尊に守られる。 と言うことは、過去の仏も全て御本尊に守られている。 久遠元初の御本尊だけど、それは、末法になって現せたんだからそれ以前ではない。 だれが守るんだろうね? 【「暗きにともしび」】 現世は、過去の宿習によってさまざまな苦難にあうこともある。しかし「暗きにともしび、海に船、おそろしき所には守りとなる」(乙御前御消息)との仰せのごとく、どのような行き詰まりも、自然と道が開けてくる。これが現世には生活が守られるということです。 そして臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得ることができる。 ともしびと言うより、迷いの元ではないか。 道が開けるとかいっても、開けてないでしょ。 顕正会の行動を見ていれば、行き当たりばったりで先に進むのではなく、後退したり、回り道をしたり、グダグダではないか。 【臨終の相に現われる】 こういうと、「死んだ先のことなど分らぬ」という人もいるが、臨終の相を見ればわかるのです。 臨終の相は、その人の一生の総決算であり、同時に、その人が死後の未来に受けるべき果報が、臨終の相にはっきりと現われる。 ですから、地獄に堕つる者は、生前どれほど色が白くとも、死してのち遺体が黒くなり、重くなり、恐ろしい形相になる。 一方、成仏を得た者は、たとえ生前色黒の人であっても、臨終ののちに色が白くなり、軽く、柔らかく、そして柔和な相になる。 臨終の相だけは、人の意志の及ぶところではない。 先月の総幹部会でも二人の女性から、それぞれ我が父、我が夫の良き臨終の発表がありましたね。私は感動いたしました。 大聖人様の仰せのままの信心をすれば、仰せのままの功徳が頂ける。最後臨終に成仏の相を現ずる。私はよき臨終のことを聞くたびに、有難さが込み上げてくるのです。 臨終の相とか言うけど、日蓮上人が亡くなったときの相て記載されていないよね。 成仏の相が無かったから記載してない。 下痢で苦しんで苦痛のうちに亡くなったから、死に顔は硬直していた。 【凡夫を仏にして下さる】 凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲が、何とも有難いのであります。 このように、日蓮大聖人の仏法は、いかなる人をも、根底からお救い下さるのであります。 自分の下痢で苦しんでいる人が、人を救うのは無理があるでしょ。 さきに自分の下痢を諸天に申しつけて治させればいい。 でも出来なかった。祈りが叶わなかった。 だから常陸の国に湯治に行こうとした。 しかし、池上で虚しく没した。 守られていないでしょ。 【国家を根底からお救い下さる】 次に、国を根底からお救い下さるとはどういうことかと言えば 国家の興亡盛衰の根本は仏法にあるのです。ゆえにもし日本一同が、日蓮大聖人が留め置かれた「本門戒壇の大御本尊」を信じて国立戒壇を建立すれば、国を危うくする内乱や他国侵逼は自然と消滅する。そして国の安きこと盤石のごとくになる。 だが、もし国中が日蓮大聖人に背くならば、仏法を守護する諸天善神はその国土を捨て去る。そのとき天変地夭が盛んになり、ついには他国から侵略を受けるのであります。 この原理は、空理空論ではない、実証を伴っているのです。 空理空論で実証が伴っていない。 嘘はいけないよね。 「本門戒壇の大御本尊を信じて国立戒壇を建立すれば」て国立戒壇と入れ物がないと、どうにもならない本尊て事になる。 そうなると現時点では不完全な本尊と言うことになる。 国立戒壇という入れ物が大事みたいだが、所詮入れ物、本尊有っての入れ物なにに、入れ物と本尊が不二の関係みたいないい方だ。 淺井昭衛はやはり、ただ者ではないと思ったが大馬鹿者であった。w 「だが、もし国中が日蓮大聖人に背くならば」と言うが、もしではなく、背いて居るんでしょ。 それも800年近くだよ。それなのに、「もし背くならば」てこれから背くみたいではないか。 「仏法を守護する諸天善神はその国土を捨て去る。」にしても、謗法が充満している日本には諸天は居ないと日蓮が言ってるではないか。 だから神天上法門を展開していたでしょ。 もう、呆けてきてるのかね? 「そのとき天変地夭が盛んになり、ついには他国から侵略を受けるのであります。」て、日蓮に背いていた。それも800年間もね。 天変地夭も盛んだった。他国からの侵略も数度受けている。 で、こらからなに? 他国がて君達顕正会員が引き寄せている。 祈って現実になれとね。 そうしないと、淺井昭衛や日蓮の予言が虚しくハズレてしまう。 それは困る。だから、無意識に叶うように祈る。 だから顕正会員は国賊と言うのだよ。 にほんブログ村 「自灯明・法灯明」 「願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、 我らと衆生とともに仏道を成ぜんことを」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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