|
カテゴリ:航海日誌
参照
Re:1月総幹部会(1)(02/24) 浅井智慧ゾ〜 さん >雪中で開目抄記し給う御尊容拝し奉れ「開目」のお手伝い申し上げるのが顕正会の戦い 開目抄ね・・・いきなり冒頭で「老子は孔子の師である」って書いて 江戸時代の漢学者からこいつは物知らずかって、バカにされた書物ですね。 他にも経典関係で間違いがいっぱい有って、そんな書物で一切大衆の目が開くわけないでしょw。 私もこの箇所から読む気が失せました、これを大石寺の僧侶や信者に指摘すると いちおうに口を閉ざして、話題替えに必死となります。←これ、豆知識ね。 開目抄ではなく「閉目抄」の方があってるかも知れませんね。 なんせ、物事を見る目を閉じるのが日蓮の教えですから。 え!違うぞぉ~と言う声が聞こえてきそうですが、間違いを垂れ流して、それを修正もしないで、御本仏の御金言だから絶対とか言ってる輩さん達。 おもっきり盲目になってるでしょ。 これでは、開目ではなく閉目ですよ。 しかし、中国かぶれの日蓮さん。「老子は孔子の師である」て、この遺文を処分しなかったんだと、激怒してそうw ところで、僧侶に指摘は分かるのですが信徒に指摘しても、知らないから分からない。 分からないから、老子が孔子の師だと思ったままではないかと思いますよ。^^ ちなみに御書で該当の言葉を検索してみたら、「老子16」「孔子22」も出てくるんですね。 Re:1月総幹部会(1)(02/24) 匿名希望 さん >まことに恐れ多いことでありますが、戒壇の大御本尊様の大いなる御判形の真下には「右現当二世の為 造立件の如し 本門戒壇也」と御認めあそばされている。 浅井氏のこの「本門戒壇也」の勘違い?(実際は本門戒壇の願主弥四郎国重と記されてるらしい)の原因は この戸田氏の文からだと思います。 「弘安二年十月十二日の御本尊様が、究極中の究極の御本尊様なのです。大御本尊を拝すると、花押の下に「本門戒壇也」と、チャンとおしたためになっている。その次に、願主弥四郎国重とありますが、本門戒壇の願主ですけれども、この御本尊は、本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない、絶対にない。(大白蓮華 昭和三四年三月号七ページ)」 浅井氏は、ここの「本門戒壇也」の部分を信じて引用してるわけですね。 しかし、戸田氏も「チャンとおしたためになっている、争う余地がない、絶対にない」と大見え?切っていますが、信仰と無関係な仏教学術、仏教美術界では「争う余地がない? 現物を拝見、鑑定もしていなくて、何を言ってるのだ?」と失笑モノでしょう。 これは面白いですね。 戸田さんが元だったとは。 そうなるとあながち、淺井さんが間違いてことではなくなる。 昭和34年以前の拝観でしょ。 御宝蔵でそれも間近で見ているでしょ。 それぐらい、貢献しているはずです。 そうなると戸田さんがみた板本尊には「本門戒壇也」と書かれていた。 「本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない、絶対にない。」とまで言ってるのだから、書いてあったのでしょ。 で現在は「本門戒壇の願主弥四郎国重」成っている。 そうなると二体の本尊があるとなる。 これなら、戸田さんが断言していてもおかしくない。 しょせん、いつ誰が作ったかハッキリしてない板きれ仏像ですからね。 ダミーがあってもおかしくないでしょて、ありましたけどね。w だから判別するために「也」と「の」を違うふうにしていた。 後に問題になるとは思ってなかったんでしょ。 なんせ、上代の時からいい加減で、抜けているのが大石寺ですから。^^ でも、本尊が「戒壇也」てのもどうなんですかね? 戒壇は受戒する場を指しますが、板きれ本尊は、受戒する場ではないですからね。 それに本尊=仏像て見た場合、本門戒壇の仏像(本尊)て成るわけですよ。 ここで、本尊は仏像ではないとか言う、大石寺さん兄弟とかいそうですが、戒壇本尊て仏様でしょ。 仏を現しているのが板きれ本尊なのだから「仏を現している像」なので仏像となる。 でも十一面観音様もビックリ! 十界の住人がミックスされていて、その上、敵対者である第六天の魔王まで入れている。 凄いですよね。感応道交したら、本尊に含まれている第六天の魔王とも感応道交してしまうのではないかなと?・・・ Re:1月総幹部会(1)(02/24) 雲羽百三 さん >行き先不明のバス 明確な終点の無い循環バスも沢山あります。 正に本部会館のすぐ近くを通るバスに、そういうのがあるんですけどね。 途中下車しないと目的地で降りられず、また駅前まで戻ってしまうバスです。 また、途中下車して近道を行くバスに乗り換えた方が早い場合もある。 それに最近はバスの事故も多く、終点まで辿り着けない便もあったりしますね。 揚げ足取りと言ってしまえばそれまででしょうが、しかし素人に揚げ足を取られる程度の稚拙な例えということでもあるわけです。 本当に崇高な教えなら、たかが素人如きの揚げ足取りや皮肉など気にもならないでしょう? それなのに大石寺三兄弟ときたら……。 いい視点ですよ。 これは気がつかなかった。 淺井昭衛が言う明確な終点。成仏ですが、顕正会の信仰で到達できるかですね。 第一執着だらけの顕正会にいて、成仏など無縁の世界。 終点を明確にしても行き先を間違えて、断崖に進んでいるのが顕正会とも言えるでしょ。 そんなことはない。確りした終点に向かっている。てなるかも知れませんが、循環バスてオチなんでしょうね。 終点に向かってるようで、ぐるぐる回っているだけ。 これって、六道輪廻を繰り返す顕正会にピッタリでしょ。 顕正会バスに乗車していると、六道を巡ってしまう。 それなら途中下車で、乗り換えした方がいい。 顕正会の目標はコロコロ変わる。 これって目的地が変わるって事ですね。 終点は成仏だけど、終点にたどり着けないで通過地点だけを繰り返し通過しているだけ。 100万になれば広宣流布が・・・ 1000万顕正会員にならないと、日本が世界が亡ぶとか・・・ 急ぎ300万を目指してとか言ったと思ったら、200万とか目標がコロコロ変わる。 目的地に向かうのに蛇行しているのか? 道に迷って循環しているてオチ? いや、崩壊という崖に向かってまっしぐらでしょうね。 ということで、成仏行き循環線、顕正会号で問題無さそうですね。w にほんブログ村 「自灯明・法灯明」 「願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、 我らと衆生とともに仏道を成ぜんことを」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|