だれもが楽しくあるのは不可能なのか?
だれもが楽しくあるのは不可能なのか?今日一日中考えていました。僕は頭ン中でいくつも考えが同時進行するタイプなんで、俗に言う「片隅」の全処理能力をこれに傾けていました。可能だが不可能にしている。というのがまあ一応の応えです。答えではなく、ある種の自分自身に対しての。。。ある一つの事象に対して「否定」をする。すると片一方は学びになればいいが、心無い、配慮無いことばに傷つく。これは絶対に許されないし、自分の周りで起きた場合、絶対に許しません。しかし、「肯定」することが、「否定」することにもなります。例えば、話の長い人がいる。みんなが迷惑を被っている。みんなのために、なにより一つの目的達成のために、(というのもここではある目的のために目標を設定し、ひとつの結果を出すことを目的と定義させていただきます。)必要な配慮として、その話の長い人の話をまとめる。また、短く結論が出せるよう導く。最悪本人に恐縮するも打ち明ける。こんなことをするでしょう。だれだってやりたくないが。では、Aさんに注意したとして、別のBさんがAさんを擁護する。すると、注意をした人、あえて言いますが、結果のために真摯に頑張った人が否定されることになります。無意識にですが、概して悪気は無いのも最悪です。さらに別のCさんが、話は長いけど、問題ないと擁護する。もちろん結果がでるかでないかをここで問わない。嫌な気分になるのは最初の一人です。言わずもがな。なぜそうなるのか?ここでは、Aさんに注意した人が、本当に配慮して、理解を得ることができるようにその場での最適な行動をとったという前提です。おかしいと思う。これを許せない。無意識だからいいのか?だったら、無意識に人をはねていたら許されるのか?偶然人を傷つけていいのか?ワザとじゃなければなんでもありか?故意と過失はそんなに違うのか?人が死んだ時、残された人にとって、「いなくなった」という事実は変えれない。ただ、人はいつもその原因と結果を求める。一番力を注いで、一番氣を注ぐ先はそこにひざを抱えているのに。なぜだろう。道を歩く時、半歩ずつよけるように、席を譲る時、譲った方も笑顔になれるように、半分ずつ気遣えればみんな幸せなのに。一人その半分を怠ることによって、それがカオスのように、蝶の羽ばたきが、数千キロのかなたで嵐になるように、すべてが連鎖するように、ステークホルダーが複雑に絡み合うように、多くのストレスとなって顕在化してくる。いつか、自分に関わるすべてのことにおいて、このことをすべて無くします。必ず。自分の目の届くところ、自分の力の及ぶ範囲。未来の自分の可能性のスケールにおいて、このことを心に留めて置こうと、今、切に想います。