★「流星挽歌」★ 12
新東京国際空港を飛び立った鉄の鳥は、十三時間あまりでミラノのマルペンサ空港に到着した。ミラノになったのは、もちろんコモ湖の彼の別荘に近いからだ。 英語も危ないが、イタリア語はボンジョルノくらいしかわからないので、アカネはリューとマッチオからはぐれないように慎重についていった。しかも海外旅行ははじめてだ。せめて、日本語の通じる香港やハワイで、練習をしていればよかったと思った。 二人がすることをまねしながら、なんとか入国審査や税関をクリアできた。自分のパスポートを初めて外国人のおじさんに見られたときは、どういう反応をされるかと心配になった。しかしあっというまに審査はおわった。三十二才の姉とは違って、厚化粧ではないので、クレームがつくことはないだろう。パック旅行ではないので添乗員も、現地係員もいない。頼れるのはリューたちだけだ。 自分の荷物を受け取って、二人についてゆく。リューはおろおろしているアカネを見守りながら、的確にアドバイスをくれた。「ちょっとメールを見たいんだ」 そういって三人は、インターネットのできるカフェに向かった。 小さなノート型パソコンを開けて、メールをチェックしている。(リュー、気をつけろ。我々は狙われている サエキ)(七月二五日、ヴェネツィアのアカデミア美術館の水上バス乗り場で待っている、アンドレ) 「ヴェネツィア」気になった。ミラノからだとかなりある。空路でなければ向かえない。アンドレはフランス人だ。なぜイタリアに帰ってくるのか? こうして約一時間後に、マッチオが呼んでいた車に乗り込んで、マルペンサ空港を離れた。真っ白なリムジンがやってきたときには、逃げ出したい気分になった。通信販売で買った、情けないワンピースを着ている自分が、あまりにも惨めだ。人間に貴賎がなくても、貧富の差があると、惨めになるものだ。日本に帰ったらもうペンパルはやめようかと思う。普通の男に恋をして、普通の幸せで満足するべきなのだろう。 マッチオによると空港からミラノ市内まででも、六十キロもあるらしい。コモ湖は四十五キロだという。アルプスの南山麓に隣接していて、美しい湖水が広がっているらしい。期待と不安入り交じっている。期待はお金持ちの別荘に泊まれること、不安は自分とは世界が違うのではということ。不安になるたびに、リューのエメラルドのリングを見てしまう。いまは風光明媚な湖畔と貴族たちの瀟洒な別荘のエレガントなイメージを思い浮べながら、リューの横顔を眺めていることにした。 快調にリムジンは走ってゆき、ミラノに到着した。「ここで食事をしていこう」 リューの提案で、小さなリストランテに入った。「よかった。ここで。落ち着くわ」 いきなりゴージャスな場所だとひいてしまう。初めての海外旅行。これくらいでいい。「今夜はもっとご馳走を用意させておくよ。だから昼は軽く食べてくれ」 それでもパスタは山盛りだし、ジェラートも美味だったが、かなり甘かった。それでもミラノの街角で、こうして食事をしていることは、ほんの三日前まで想像もできなかった。しかも懸賞に当たったように、全額出してくれる人がいる。懸賞ではスプーン一本当たったことがないから、奇跡のようなことなのだ。(まるで天国みたい) アカネにとって、イタリアは月の裏側だった。映画やテレビで見るだけの、二次元の世界だった。 そしてエスコートしてくれるのは、金持ちで用心棒を連れているイタリアンガイだ。しばらくは夢見ごこちでいられるらしい。 食事がすんで外に出ると、映画で見たものと同じ風景が広がっている。さっき食べたジェラートの甘さが、まだ舌のうえに残っていた。(いまここでキスをしたら、ジェラートの味がするのね) 妄想が広がりすぎて、パンクしそうだ。「ここで待っていてくれ。ちょっと失礼するよ。」 リューが一人で角を曲がっていった。マッチオのような武骨な男と二人きりで残された。 レストランの前に小さなイスが二つ置いてあったので、腰をかけた。(オネェに借りてきて、もっといい服、着てきたらよかった。こんな安物じゃミジメ) 餞別でもらったお金で、リューと並んで歩いても似合う服を、買おうと思った。旅行だからと、どうでもいい服を着たのはまずかった。鏡を見ていたら、アイラインがにじんでいたので、気になった。マスカラであげたまつ毛も、下がってきたような気がする。無理をしてでも、五千円のまつ毛パーマをかけてくればよかったと後悔した。 マッチオはイライラして、タバコを噛んでいたが、決まったようにタバコを拳でつかんでつぶした。「わたしも、失礼します。ここから絶対に動かないように」 しばらくして、マッチオも行ってしまった。 異国なのに、アカネは一人置いていかれてしまった。 エスコートをしてくれるナイトは、誰もいない。 リューは記憶にあった花屋で、花を選んでいた。イタリアの街を歩くのは二年ぶりだ。彼にとってはなつかしいが恐ろしい、そんな場所なのだ。「それとそれで、花束を作ってくれ。若い女性に贈るから」 すぐに花束ができあがった。さっきのレストランへと向かう。 Syusyu! リューは殺気を感じた。音はしなかったが、これはサイレンサー付きの銃なのだ。(狙われている) Syusyu! 三発目と四発目が炸裂する瞬間に、リューは身をひるがえしてかわした。 石畳の狂暴な歩道を転がって、暗殺者の居場所を探していた。 五発目を恐れて、路上駐車の車の影に隠れた。 めりこんだ玉から推理し、南西方向からと解答を出して、視線をレーザーのように飛ばした。 頬が痛い。かすったらしい。指先でぬぐったら、鮮血で染まった。 すでに花束はリューの肩でつぶされて、砕けてしまった。 耳をすませた。「ボス。大丈夫か」「マッチオ、気をつけろ。銃撃されている!」「ボス逃げろ。俺に任せておけ」「俺はアカネのところへいく。心配だ」 またあいつらだ。いつもいつも俺につきまとう。心の安寧を得られたのは、アメリカでの日々だけだ。たしかにEUよりは治安が悪いと言われるが、狙われるのは自分ではない。しかしここでは自分自身がいつも標的になるのだ。やはりアカネを連れてきたのは間違いだった。 石畳を蹴って走ってゆく。記憶をたどりながら歩いたので、少し遠くまで来すぎたようだ。アカネが心配だった。 Gyuuuuuuuun! Kiiiiiii!(車だ!)今度は殺人マシンの登場だ。 取って返して、逆方向へと走った。レストランへ向かうとアカネを巻き込むことになる。 背後を見ると、車は一直線にリューに向かって突っ込んでくる。全速力で走ったが、それでも限界だった。 やられる! 声なき声で叫んだ。 死に際に浮かんだのは、イタリアまで連れてきたペンパルのことだった。いつも死を意識するほどの恐ろしい場所だった。けれども唯一の愛しい故郷だった。ふるさとは?と聞かれたら、かならずここだと答えるだろう。 Kiiiiiiiiiiiiii! タイヤがうなる高音がしていた。中耳まで入り込み、鼓膜を振動させている。耳が痛いほどの、悲鳴だった。 身を隠しながらふりかえると、車がスピンしていた。 数百年もの歴史を持つ世界遺産のような建築物の谷間で、何度も蛇行し、三十メートルも滑って最後にはクラッシュした。 歴史的価値のあるミラノのホテルの脇に、暗殺者のマシンは激突していた。ドライバーの正体を確かめようとして、リューはゆっくりと近づいてみた。運転席にはフィルムがはってあるようだが、すでに半分砕けていて、車内をのぞくことができた。 ドライバーは運転席にうつぶせになっていた。車はボンネットの部分がつぶれていたが、はさまれてはいないようだった。人が来る前にドライバーの顔を見るために、頭をつかんで上げた。知らない男だった。しかしアジア系の顔だったので、どこかで雇った傭兵か殺し屋なのだろう。安心と不安が同時にやってきて、押しつぶされそうだ。それでも立直って、その場をすぐに離れようとした。「!」 車のフロントガラスを見ると銃弾の痕があった。もう一度殺し屋の顔を見ると、真ん中を撃ち抜かれていた。すぐに辺りを見回して、人の気配を探った。レーザーのような視線をスコープ代わりにして、リューは何かを探していた。「ボス、大丈夫か?」「マッチオ、オマエがやったのか?」「ノ。俺はいまボスをみつけた所だ」「殺し屋だ。しかしこの殺し屋を殺したヤツがどこかにいる」 マッチオは箱に入ったような空を見上げて、第二の暗殺者を探した。しかし気配はない。「事故だ」「どうした?」「ウェ、めちゃくちゃだ」 野次馬が集まり始めた。石畳と歴史的建造物にメカニックのクラッシュは似合わない。「アカネの所へ戻ろう。このことは彼女には話すな」「わかったボス」