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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2008.04.18
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カテゴリ:裁判
この機に三島由紀夫の憲法論議の九条についての考察を掲げ、研究資料としたい。

( 二 )「戦争の放棄」について
 この条文についてはさまざまな法解釈があとから行はれ、目下自民党政府が採用してゐる解釈はいはゆる清瀬解釈と呼ばれるもので、第九条第二項の「前項の目的を達するため」を「前項の目的を達するために限り」と強ひて限定的に解し、国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄するために限り、戦力を保持しないが、それ以外の自衛の目的のためには保持しうるとして、自衛隊の法的根拠とするすこぶる苦しい法解釈である。これが通常の日本人の語釈として奇怪きはまるものであることは、いふまでもない。

 ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が日本側の自発的意志であるか米側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。ただこの条文が、二重三重の念押しを絡めた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである。

 論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明確に放棄されてをり、いかなる形においての戦力の保有も許されず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。全く物理的に日本は丸裸でなければならぬのである。

 終戦後食糧管理法によりヤミ食糧の売買が禁じられてゐた時、一人の廉直な裁判官が、一点も国法に違背しまいとして、配給食糧のみで暮し、つひに栄養失調で死んだ。国法の定めた法に従へば、死ななければならぬとなれば、緊急避難の理論によつてヤミ食糧を食べることが正当化されるであらう。しかし、このことは国の定めた法の尊厳を失はせ、実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳の裂け目を拡大し、守りえぬ法の存在そのものが、違法を人間性によつて正当化させるのであるから、道徳は法を離れて、人間性の是認に帰着し、人命尊重を最高の道徳理念にするほかはない。

 しかも、一方、新憲法に於て、国家理念を剥奪された日本は、その法の最後の正当性の根拠をも亦、「自ら定めた法を自ら破らざるをえぬ」といふ、人間性の要請、人命尊重の緊急避難といふところへ設けざるを得ない。

 この裁判官の死は実に戦後の象徴的事件であって、生きんがためには法を破らざるを得ぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになった。第九条に対する日本政府の態度は正にこれである。第九条のそのままの字句通りの遵法は、「国家として死ぬ」以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を動員して牽強附会の説を立てたのである。

 自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治情況の変化による要請に基づくものである。朝鮮戦争下のアメリカはたしかに憲法改正を敢てしても、日本の自衛隊の海外派兵を望んだであらう。しかるに吉田内閣は、ここにいたつて新憲法を抵抗のカセとして経済的自立の急務を説いて、防衛問題からアメリカの目を外らせたのである。これが今日、日本の未曾有の経済的繁栄、一方ベトナム戦争の進展により、アメリカの孤立主義的世論の強まり、これから来る「アジア人をしてアジア人と戦はしめよ」といふ新しい軍事政策の展開、これに対する日本の「自主防衛」といふ迎合的遁辞、又一方では、日本の「軍国主義化」に対する諸外国の猜疑等、諸々の要因が簇出してゐることは周知のとほりである。

 新憲法と安保が一セットになつてゐるといふことは既述したが、一九七〇年の難関を突破した今、自民党は再び吉田内閣以来の「新憲法と安保は一セット」主義に立ち戻つて護憲を標榜してゐる。その護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に乗り過ぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極的彌縫策に過ぎず、国内的には、片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、片や「平和愛好」の国民の偸安におもねり、大衆社会化状況に迎合することなのである。

 しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に遷延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆくことである。この間、自主防衛の美名の下に、若年労働力不足といふ共通の難問を解決するために、日本的産軍合同の形態が準備されつつあることは自明である。

 核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。しかしここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。

 第九条の改正乃至廃止は、国内では左派勢力の激発を、国外では、米国のアジア軍事体制への歯止めなきかかはり合ひを意味し、且つ諸外国の警戒心恐怖心の再発を予見させるがために、「憲法改正」すなはち「九条改廃」が、全国民をしておぞけをふるはせるメドウサの首になつたのである。

 私は九条の改廃を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、折角「憲法改正」を推進しても、却ってアメリカの思ふ壺におちいり、日本が独立国家として、日本の本来の姿を開顕する結果にならぬ、と再三力説した。

 たとひ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き換へても、それで日本が独立国としての体面を回復したことにはならぬ。韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終わる事は明らかであり、これらの国家はアメリカと軍事双務条約を締結してゐるのである。

 第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は十分可能である。
 
 しかし第二項は、明らかに、自衛権の放棄を意味するから削除すべきである。」といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、不公平不調和を免かれぬ。

 その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・伝統・文化の自主性の表明を二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。むしろ第九条全部を削除するに如くはない。

 その代りに、日本国軍の創設を謳ひ、建軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定すべきである。

「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される」

 防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして、国家を語ることはできぬ。物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障ととしては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は他国の時間的国家の態様を守るものではないことは、赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てるといふことも敢てするのを見ても自明である。

 自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に生育しえないことに、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。

 自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の物理的な次元の差にしか見出すことができない。国軍の矜りをもつことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、われわれはここに論議の凡てを集中しなければならない。(以上)


 長沼判決の際、私は大学を辞めるつもりで自衛隊に正式入隊した。もう国を守るには内部から変えるしかないと。しかしそこには、敵はいない代わりに、残念ながら変革を語りうる友はいない。短期間で除隊して現実の世界に戻り、日々のチャレンジに戻った。大学に変革の夢を求めて。
 当時とくらべて、確実に自衛隊の認知度は高まっている。長沼判決は自衛隊の装備などに厳格に検証を加え、違憲と判断を下した。私の論は「統治行為行為論』で逃げるのがやっとであった。
 しかし今回の判決はなにか。姑息な手段で反論権すら認めずに、主義を主張するのは禁じ手ではないのか。
 国際貢献を本隊業務に格上げして以来まだ法的基盤が整っていないとするならば、恒久法整備に向け、国会の論議を活発にしていかねばならない。中国の暴発の前に急ぎアジア近隣諸国との集団防衛ができるようするのがわが国のおかれた責務であろう。





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Last updated  2008.04.18 23:07:47
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