草莽の記    杉田謙一

2008/04/20(日)01:22

冤罪について思う

裁判(6)

冤罪 善なるマスコミの報道により人は救われ、悪なるマスコミにより人は名誉を傷つけられ生活の全てを失う。マスコミの報道はしたがって慎重に、かつ政治的意図に染まったものであってはならない。  百人切りの裁判において、マスコミの犯した罪は計り知れない。いまだ野田,向井氏とそのご家族は、中国からは鬼畜の代表として南京虐殺の典型として糾弾され続け、日本国内においても名誉の回復が、なされていない。本田勝一、嘘を書いた浅海記者はどう感じているのか、マスコミの寵児として人生を全うしたいのであろうが、無罪の罪で殺され名誉すら回復されない両氏のくやしさはいくばかりであろうか。マスコミ関係者の本音を聞きたいものである。  かつてよりこころのつかかりがあり、またここ数日、ブログ読者と議論する中で大きく広がってきた疑問がある。  なぜに作家大江健三郎氏は沖縄裁判でまともに答えないのか。取材すらせず、ご自分で書かれた書物で名誉毀損を受けていると感じる方がいるのに、開き直られ、ありえぬ百人切りを書いた記者が、新聞社が、その非を認めない。 マスコミのご要望の「絵」どおりに発言をせねば困るのであろうか。冤罪者を作っているかもしれないという危惧はもたれないのか。  もしかして私も、とんでもない『絵』の中に入れられたのではないか。誰でも良かった。たった一人でも『靖国』に抗議する者が出れば、一気にマスコミが動く。うがった見方であるが。  裁判という勝敗を決しなければならないとき、他者の名誉は損なわれても仕方がないとマスコミ関係者は思われるのだろうと感じてはいた。  いや、それが裁判あるのであろう。真実を語るものではない。戦いなのだから。今回の「傍論勝訴」も、してやったりなのかとも思う。戦いなのだ。  あの事件は。私が関心を持っているのはかつての北海道庁爆破事件の大森勝久氏のことである。一九七六年三月二日、道庁本庁舎一階ロビー西側エレベーター付近で爆発が起こり、出勤途中の職員二名が亡くなったあの事件である。 「反日闘争」を進めている人物を中心に捜査が進められ、同年八月二日、容疑者大森勝久氏は逮捕された。その後の家宅捜索で「反日戦線」との交友関係と自室内にあった工具類が発見されている。一九八三年第一審の札幌地裁は、目撃証言などにより死刑判決を言い渡した。その後、札幌高裁への控訴、最高裁への上告は棄却され、死刑が確定した。二〇〇二年、札幌地裁に再審請求を行ったが、昨年三月に棄却されている。しかし一貫として無罪を主張してみえ、その主張は筋が通っていると思われてならない。  もし、彼が犯人でないとすれば、彼の周辺にいたものがなしたことになる。支援者はいるであろうが、しかし大森氏は獄中においてすでに「転向」し、憲法九条についてもこのように記載している。 「憲法九条は一九四六年八月の芦田均氏の修正により、自衛のために軍を保有できるようになったのである。連合国の全てが認めていたことである。歴代内閣の 九条解釈は「改釈」であり、法を否定した反国家的犯罪である。もちろん無効だ。裁判所はそのように判決する法的責務があるのにしてこなかった。裁判所も法に違反してきた。憲法九条問題は、国防という国家機関と国民の最高の法的義務・権利の問題である。  内閣総理大臣が主導権を発揮して閣議で、『従来の解釈は誤りであった。法と九条に違反していた。九条は自衛のための国防軍の保有を認めている。自衛隊は軍隊である。従って日本国家の個別的および集団的自衛権は完全であり米国等と同等である』と決定し、裁判所が正しいと判決すれば、すぐに解決することである。  あるいは裁判所が先行して判決を出せばよいことである。これは保身を排し政治生命を賭してやらなければならない法的義務である。国民は主権者ではない。国民の意思を問う必要など全くない。法が要求することを、政府も裁判所も議会も国民も実行しなければならないのである。「憲法改正」の方法では、改悪の結果になるだけである。」  この判断は左翼の範疇にはない。ではもし彼が無罪だと確信する元の同志たちは彼をどう扱うのであろう。捉えているのであろう。    私は大森氏を冤罪であろうと推測するが、思想をことにする大森氏が、サヨクの支援をなくしてまで、自らを振り返り静かに見つめ、到達された新たな思想に忠実に発言されてみえる姿に感銘を受けるのみであります。  冤罪にて死刑執行のなきよう祈るのみです。  

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