戦国ジジイ・りりのブログ

2013/08/17(土)00:23

赤間ヶ関編(36) 甲宗八幡神社

旅日記(九州)(20)

展望台から子供たちについて降りていくと、 やっぱり登りの時に休憩したところに出た。 さてと、これからどうしよう・・・ 与次兵衛さんのところまで戻れば確実だけど、 次に行くところまではかなり大回りになっちゃうし・・・ 手持ちの地図を見ると、通行止めの道を下っていけそうなんだけど、 本当に抜けられるかどうかわからないしなあ・・・ とりあえず行ってみて、ダメそうだったら早めに引き返そうと思って、 通行止めの車道を降りていくことにした。 歩いてみると普通の道で、なんで通行止めになってるんだろう? と思ったけど、とりあえず確実に車は来ないハズなので、 地図で現在地を確認しつつ、のんびり下る。 車道が切れたところは進んでいいのか怪しまれる道だったけど、 なんとか進めるみたい。 ここにある大きな建物はトンネルの換気の設備らしく、 辺りには誰もいなかったけど、門の隙間から建物を覗いた目に入ったのは、       て表札だった。 ここは古城山だから、単に地名を付けただけなんでしょうけど、城好きには 「かっちょええ名前じゃの~」 って映るから不思議(笑)。 この建物の正面に階段があって、ここを降りると住宅地に出る(現在地はここ)。 よしよしっ この辺の自作の地図はかなり詳細だから、このまま行けそうだ。 しかしこの辺、古い町だけあってかなり細い道。 人んちの玄関先をビクビクしながら歩いていくと、 だんだん道が広くなってきた。 ここにあったふたはこんなの。        これもどんぐり柄だけど、和布刈神社の近くで見たのとは ビミョーにデザインが違う。 次に目指すのは、甲宗八幡神社。 地図を見ると近い距離に2つあって、なんだかよくわからない。 とりあえず一旦大通りへ出て、地図を見ながら進む・・・ けど、脇から入る形になっちゃった。 いちおう参道って書いてあるしな、まあいっか~と入ろうとして 古城山を見上げると、パゴダが遠くに見えた。      ああ、あれかあ~。 パゴダは昭和32年に、ビルマ政府仏教会と旧門司市の合意により、 戦没者の供養と世界平和を祈念して建てられた、とあって、 めかり山荘の八大龍王神の先を行くとあるみたいなんだけど、 ちょっと遠そうだったから寄るのやめたんだよね。 ミャンマーのお坊さんがいる、日本で唯一の寺院らしい。 で、甲宗八幡神社の境内へ。 思ってたより立派な神社。         この社殿の向かい、撮影位置より後ろに石段があるんだけど、 石段の両脇に立つ灯籠を見て、思わず吸い寄せられるように近寄った。         これ、胴の部分が木だ・・・ こんなの、見たことない(たぶん)。 そして参拝。 の後、拝殿の中をじろじろ覗きこむのもお約束。         ここのご祭神は・応神天皇・神功皇后など。 下関と門司の神社には、このお三方を祀った神社が多い。 時に仲哀天皇が入ってないケースもあるけど。 八幡様は応神天皇のことだから、ここの主祭神が応神天皇なのは当たり前の話。 貞観2(860)年の創建といわれているが、社伝によれば、 奈良中期に京都の石清水八幡宮建立のため 宇佐八幡宮から神霊を神輿に奉じて移すとき、 この丘の上に安置したのに始まるという。 あ、これって亀山八幡宮の由来と同じだ・・・ てことは、宇佐の八幡様は、目的地に辿り着くまでの間も 精力的に分社をお作りになられてたってことか。 港々に女を作る船乗りみたいだな(不謹慎?)。 ただ、亀山八幡宮の方の創建は859年ていうから、 絶対門司→下関ルートを通ってるでしょ?ってことを考えると、 「んん!?」 って疑問がわく。 他に、宇佐神宮にあった、神功皇后が着用した甲(かぶと)をご神体として、 西門鎮護の要である門司港に近い筆立山の麓に祀ったのに始まるという説もある。 なんにしても、ご神体は兜。 この兜は公開される・・・が、50年に1度の大祭の日のみ。 前回の公開は2008年だったそうだから、次のお目見えは2058年。 ・・・無理だな(笑)。 壇ノ浦の合戦では八幡宮も被害をこうむったらしく、 戦後に源範頼・義経の兄弟が修繕したとある。 大内・毛利・細川・小笠原など時の支配者の崇敬も篤く、祈願社でもあった。 社宝として、ご神体の兜、上記武将や足利尊氏らの書状(=甲宗八幡神社文書) などがある。 この甲宗八幡神社文書の中には、門司八幡宮(甲宗八幡神社の旧名)の大宮司が 神社や社領の由緒を記した証文を提出し、以後も大宮司でいられるよう 申請したことに対し、身分を安堵した大内義興の書状がある。 書状の出された永正17(1520)年は、寺社の領地や免田の確定をするために 大内氏による豊前国内の寺社の調査が行われていた年。 今でこの風格だから、当時はもっとすごかったんじゃないかと思うんだけど、 それでもこういった申請書が必要だったなんてね。 大内氏に限らず、領地を保証した安堵状はあちこちに沢山残されてるけど、 支配者が変わるって、大変なことなんだなあ~って改めて思った。 「甲宗八幡神社文書」については、神社の入口にも解説があった。   【甲宗八幡神社に伝来した中世文書です。これらの文書から中世における    同社の社領、納物などの内容を知ることができ、また当時この地を支配していた    大内氏の崇敬被護を受けていたことを読み取ることができます。    なかでも「門司関六ヶ郷総田数注文写」は文永9年(1272)に作成された    土地台帳で、鎌倉時代の公田「門司六ヶ郷の規模とその構成を    明らかにするものです。    また「足利尊氏寄進状」は建武3年(1336)3月多々良浜の戦いに勝ち、    北部九州を制圧した尊氏が東上の途中、義兵成就、子孫長久などを祈願して、    同社に土地を寄進したことを記すものです。後に室町幕府を開くことになる    尊氏の戦いにかけた期待をうかがうことができます。    この文書は、中世後期の北九州の動向を具体的に明らかにする貴重な資料です。】    (現地案内板より) 先の戦争では、門司も空襲を受けている。 甲宗八幡神社の社殿も焼失したらしく、現在の社殿は昭和37年の再建によるもの。 戦火をくぐり抜けた文書たちは、現在では市の指定有形文化財となっている。 にほんブログ村

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