2074701 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2013年08月28日
XML
カテゴリ:城(中国)
神辺城<広島県福山市神辺町大字川北>
(住所をクリックするとMapfan Webにリンクします)


※「福山編(21)」の続きです。



福山行きを決めた当初、大きな3つのお目当てがあった。

カッチンの造った福山城、カッチンが再建に手を貸した明王院、
そして神辺城。

以前にも書いたけど、付近に山城が沢山あることを知ってから、
コースの選定はまさにすったもんだ、迷いに迷って一時は福山城は外しかけた。

明王院も行きたかったけど、歴史のある寺を私がさらっと見れるはずもないので、
今回は山城を優先してすっぱり諦めた。

が、神辺城はどうしても外せなかった。
という訳で、ここはかなりの萌えスポットです。


どういう城なのか、ここから歴バナに入ります・・・がその前に。

この城、歴史的には「村尾城」が正しいようです。
基本、人名でもその時点での正しい名称を使うようにはしてるので、
このシリーズではちゃんと「村尾城」とするつもりでした。

しかし、地元の方や西国の歴史を好きな方、
あるいは毛利・尼子ファンなら神辺城を知ってるでしょうが、
ちと全国区とは言い難い。

神辺城の名称でさえマイナーなのに、さらに村尾城と表記するのは
どんなもんか・・・
プラス、個人的には「神辺城」の方が好き音符

てことで、このシリーズでは「神辺城」で通しますので
あらかじめご了承ください。



まずは、一般的に紹介される神辺城のアウトラインから。

 建武年間(1334~37)に朝山次郎左衛門尉景連が築城したとされる。
 備後およびその周辺には南朝勢力も多く、幕府からは仁木義長、石橋和義のほか、
 細川・上杉・今川・山名の各氏が備後守護の任についた。


しょっぱなから弱音吐きますが、備後でも存在感のある神辺城は、
戦国ファン、お城ファンも多く訪れ、ネットや本などでも多く紹介されます。

が、基になってる史料が「うん?」て感じのものも多いし、
それをベースに書かれるものはさらに「ううん?」て感じになってきます(笑)。

つまり、色んな人が色んなことを言ってる訳で、
現地でコピーさせてもらったものも読みましたが、
最初は素直に読めたものが、最近ではどれもこれも疑わしく見えてきました泣き笑い


例えば、築城の部分。
「備後古城記」には、建武2年(1335)11月26日に
朝山さんが城を築いたとある。
日付まで入ってるよ・・・

また、「太平記」には朝山さんが備後守護に
任じられたとある。

この辺をドッキングさせて、「備後守護の朝山さんが神辺城を築き、
守護所を置いた」とした紹介文が多く見受けられる。

朝山さんは出雲の佐陀大社の家柄の出で、
最初は南朝方だったのが、のちに武家方についたという人らしいが、
いつ頃までいたのかなど、詳しいことはわかっていない。

が、実は朝山さんが城を築いたのは、これから私が登る神辺城のある黄葉山ではなく、
その少し北にある古城山だという。



朝山さんの後は、一旦山名氏が入っているらしい。
ちょうど、山名氏が「六分の一殿」といわれて権勢を誇った時期にあたる。

山名氏清が明徳の乱で滅ぼされた後も、数代山名氏が備後を領有したらしいが、
その後に細川氏が入る。

・・・て、ものによるとここまでの間にも渋川氏とか上杉氏とか
かなり目まぐるしく守護が入れ替わってるようだけど、
もうわけわからんちんダッシュ

そもそも、「備後古城記」ってのもだいぶ後になってから書かれたものなので、
記述の信憑性については疑問視されているらしい。

あ、ちなみに、上の通説にある「今川」ってのは、もちろん了俊のことね。
高山城相方城のところで了俊の「道ゆきぶり」を紹介しましたが、
九州の南朝勢力を追っ払うために、備後の守護も兼ねて
領内での動員権を与えられた訳です。


まあ、了俊はほとんど通過しただけのはずだけど、
それ以外の守護についても、初期神辺城ともいうべき
古城山の城に入ったのかなどはよくわからない。



少し時代が下った嘉吉3年(1443)、
山名氏によって黄葉山に城が築かれたとされる。
「備後古城記」には嘉吉3年8月4日に山名近江入道丈休が築いたとあるが、
ここも日付まで入っちゃって、またまた胡散臭い(笑)。

一説には山名宗全が築いたともいうけど、どうなんだろ?

史料を基に神辺城主や歴史をまとめた杉原勇三氏の「神辺城次第」には
山名氏の歴代城主の名が書かれているが、一般的にはこの時期の城主などは
はっきりしていないとされる。

が、ひとまず山名氏が備後守護の代はしばらく続く。
そして、守護代を派遣して備後の支配にあたらせた。


その後、応仁の乱や大内義興さんの上洛戦を経て、
安芸と同じく備後も大内VS.尼子の矢おもてに立たされるようになる。

ふ~、ここでやっとサブタイトルの山名理興へ辿り着きます。
ここまで、ハンパなく話をはしょってますが、
ホントにあちこちに色んな事が書いてあって、
これらを羅列しても煩雑になるだけなので、今回はカットしますぱー



さて、山名理興(ただおき)。
歴代神辺城主の中で、最も有名な人といえるでしょう。
まずは彼に関する通説から。

 
  天文7年、大内義隆の命を受けた銀山城主・杉原理興が神辺城を落とす。
  義隆は理興を神辺城主とし、理興は山名氏の名跡を継いで「山名理興」を
  名乗る。



わたくしが福山編をなかなか書きたくなかったのは、
2日目の失敗などもあるけど、いちばん大きな理由は
この方が実に難解だったからです。

最初は通説をそのまま信じてた。
が、理興が突然現れて城主になったというイキナリ感は
初めからあった。

「なんなの、この人?」って感じで。


え~、天文年間前半の安芸の情勢については、
東西条編であれこれ書いてきましたが、ものすごく大ざっぱに言うと、
備後も似たような環境にあったと思ってください(笑)。

まあ、ここでも毛利元就がカギになってくるんだけどね。

大永年間頃(1521~1528)は、備後では尼子のシンパが多い。
が、大永4年(1524)に元就が大内方に帰属してからは、
じわじわと勢力図が塗り替わっていった。

この頃は大内義興さんも安芸まで来ていたし、
勢いに乗った時期でもあったから、享禄元年(1528)に
義興さんが早い死を迎えなかったら、どうなっていただろう・・・
て考えずにはいられない。

まま、それはともかく。

義興さんの後を継いだ義隆は、享禄3年(1530)から北九州攻略に乗り出す。
これが最終的に落ち着くのが、天文7年(1538)。

この間、義隆がずっと東をほっぽってたから
尼子の勢力が強くなったという人もいるけど(笑)、
尼子詮久も自国より東に目を向けてたとはいえ、
備後の巻き返しも図っていた。


で、山名理興に戻りますが、
天文7年といえば、義隆が頭崎城攻めに本腰を入れた時期と重なる。
( 「頭崎城(5)」以降をご参照ください)

もちろん、大内本軍単独での出陣ではなく、
傘下の周辺国人もお誘い合わせの上だから、
兵力を頭崎城にしか向けられなかった訳でもないだろうけど、
天文7年以前から東西条代官の弘中君だっていた訳だし、
頭崎城攻めが激化する前に神辺城を攻めておけばよかったんじゃないの?
とかついツッコミを入れたくなる。

大内本軍と安芸の主力を頭崎城に回してるから、
神辺城攻略は備後国人の理興に任せたか・・・って想像が頭をかすめるけど、
「備陽史探訪の会」の資料、および会の会長である田口義之氏によると、
どうやら理興は天文7年以前から「山名理興」を名乗っていたらしい。

で、ここからは主に田口氏のサイトおよび講演会資料等を
参考にさせていただきます。


理興が杉原氏の出だというのは、長い間の定説だったという。

杉原氏説の中でもまたいくつかに分かれる説があるんだけど、
そもそもは「萩藩閥閲録」所収の備後銀山城主・山手杉原氏の系図の中に、
のちに神辺城主となる杉原盛重の父として「豊後守理興」があることから、
後世になって「杉原豊後守理興」と「山名理興」を同一人物だと
考え違いをしてしまい、「神辺城主・杉原理興」が誕生したという経緯だという。

田口氏の解説に従って、私も手持ちの「浦家文書」(「小早川家文書」所収)を
見てみたんだけど、天文15年に大内家重臣から乃美賢勝(宗勝の父)あての
書状の中に「神辺杉原豊後守」という文言が出てきて、
注釈としてカッコ書きで(理興)とある。

このカッコは「大日本古文書」を編纂した際に後世に付け加えられたものなので、
これ自体正しいのかもイマイチわからない。

が、別の書状にも「杉原豊後守」が出てきて、
やはりカッコ書きで(理興)と注釈が付け加えられており、
内容と年代から「杉原豊後守」をすべて「山名理興」に当てはめて考えると、
どうにもつじつまの合わない箇所がある。

山名理興の宿老にも「杉原豊後守」という人がいるそうなので、
どうもこの宿老さんも理興という名前だったと考える方が自然な気がする。

田口氏はこのあたり、

 【たまたま豊後守の名前が「理興」だったのか、或いは盛重が
  山名理興の跡目を継ぎ、神辺城主となったことから理興を盛重の父としたのかは
  わからない。】
  (「びんご古城散策」より)

としておられる。

私も、たまたま城主と名前がバッティングしちゃったんなら、
名前変えないか!?とは思うものの、今のところは
「神辺城主・山名理興」と「山名理興の宿老・杉原理興」が
いたのかな?てぐらいに思っている。

そして「神辺城主・杉原理興」の名を広めたのが、
「安西軍策」「陰徳太平記」など、後世に書かれた軍記物。
これにより、「山名理興は杉原氏の出身」という説が定着するに至ったらしい。


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年06月29日 10時09分29秒
[城(中国)] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

カテゴリ

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ]
価格:2916円(税込、送料無料)







PVアクセスランキング にほんブログ村

お気に入りブログ

ほげほげと えびねっこさん

© Rakuten Group, Inc.