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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月08日
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カテゴリ:城(中国)
竹原の話、1話で終わらなかったな泣き笑い
まあ、わたくしの場合大内家と小早川家が絡むと
必然的に話は長くなることは長らく読んでいただいてる皆様は
よくご理解いただいてるでしょうから、気にせず進めます。

ちなみに、「人の歴史が城の歴史」と考えるわたくしは
今は「神辺城」というフィルターを通して西国の歴史を見ている段階ですので、
歴バナがあとどれくらいかかるのかは自分でもわかりません(笑)。



では、前回に引き続き竹原小早川弘平。

永正10年(1513)に沼田小早川家から福鶴丸を養子に迎える契約をしたものの、
永正16年(1519)に弘平に待望の実子が生まれ、その子が跡を継いだ。
これが興景。

大内義興さんからすれば、沼田家を竹原家の人間に継がせることで
小早川家を完全に傘下に収めたかったところだろうけど、
弘平はそれに従わなかった。

それに、永正9年(1512)の安芸国人一揆に弘平が署名しているということは、
義興さんを京に残して弘平が安芸に帰ってきたことを意味する。

弘平が離反したというところまでは行ってなくても、
自分の意に従わなかった弘平に対して、
両者の間でどういうやり取りが交わされたのかはわからない。

が、大永8年(1528)4月18日付けの
小早川興景への加冠状には義興さんの花押があり、
「興」の一字を与えている。
ここから、義興さんも弘平を許し、大内家と竹原家は
引き続き良好な関係を保ったことがうかがわれる。

大内氏との関係が崩れなかったのであれば、バックは強力なままだし、
前回の最後に書いたように竹原家は今まで以上に一族の中でも重きをなし、
さらに惣領家の経営にも関与するようになっていたことになる。

小早川惣領家の家政はそれまで主に奉行人が取り仕切っており、
竹原家はなかば独立したような地位にあったものの、
新荘系小早川氏は惣領に従属する立場を取っていた。

その辺については、「高山城(22)」でも少し触れてますが、
弘平が一族の間で台頭してきた時期は、ちょうど明応9年(1500)に
奉行人のトップ・政所が殺害されて被官人の力が落ちてきた時期とクロスする。
余談になりますが、弘平の後は新荘系小早川氏の本家・椋梨盛平の名前が
多く書状に登場することから、庶家の力が増して小早川家内での勢力図が
変わってきた時期ともいえるのだろう。


毛利元就の姪が嫁いできた頃の竹原家は、そういう状況にありました。


竹原小早川興景は、元服時点で9歳。
天文8年(1539)4月24日には大内義隆が
興景を中務少輔に推挙(20歳)。


天文9年(1540)からの尼子詮久による吉田郡山城攻めの際には、
興景は毛利氏への救援に赴いて戦っている。
この直前までの行動ははっきりわからないけど、
たぶん頭崎城攻めに参加していて、郡山城ピンチの報を受けて
杉隆宣と一緒に吉田へ向かったんじゃないかと思うけどね。

天文10年(1541)1月3日の合戦では興景の軍と毛利家の軍が
ともに戦っており、小早川家内でのケガ人リストおよび殊勲者リストが残っている。

それによると、合戦に参加したのはほとんどが竹原家の人のようではあるけど、
ぽちぽちと沼田本荘・新荘の庶家の名前も見える。

まあ、これは従軍者リストではないから、実際にどの程度本荘と新荘の兵が
遠征軍に含まれてたのかはわからない。
高山城近辺では船木常平の件もあり、頭崎城もまだ落ちてなかった時期なので、
本荘と新荘の主力はあまり遠征軍に回せなかっただろうと思うけど、
興景が小早川一族を代表して遠征したともいえるのかな~と思った。


で、そこからわずか数カ月先の天文10年(1541)3月27日、
興景は佐東銀山城攻めの陣中において病没。
享年22歳。

まだ若いし、あまりに急な死だし、その後の展開をうがった目で見ると、
ホントに病死なんだろうか・・・と疑りたくなる場面もちょっとあるものの、
とりあえずここにはツッコミは入れないでおきましょう。



ふうっ、これでやっと「竹原にし殿」へ進めますダッシュ
まずはこちら~↓。


  永正結婚ラッシュ(続)-2



以前、鏡山城あたりで使った相関図に竹原にし殿を加えただけのものですが、
この毛利の姫様は、元就の兄・興元の娘。
(上の相関図は、都合により長幼の順序を正しく表示してません)
隆景ちゃんや元春ちゃんからすれば、いとこにあたります。



『毛利家文書』の中に「毛利弘元子女系譜書」という文書があり、
毛利弘元(興元・元就の父)の子供達、プラス孫についても
若干の記載があります。

この系譜によると、興元にはまず娘があってその経歴を記した後に
「御次男幸松殿」と来る。

フツー、私達が「御次男」と言われれば他に長男もいたんだろうと考えるけど、
それについては何も書かれていないので、たぶん「第2子」と
言いたいんだろうと思う。

まあ、実は夭折した長男がいたかもしれないけど、
あまりここでは問題にならない。
それより、幸松丸より娘が先に来ていることが重要。
これをそのまま受け取れば、第1子が姫で、第2子が幸松ということになる。



竹原にし殿は、実名・生没年ともに不明。
が、不謹慎を承知で言いますと、オヤジが若くして亡くなってるので
沼田の姫(隆景の妻)と同じように、比較的計算はしやすい。

で、またあれこれとエグい計算をしてみた訳ですが・・・


まず、父の毛利興元はウィキペディアによると明応元年(1492年)生まれ、
永正13(1516)年8月25日死去。
弟の幸松丸は永正12年(1515)生まれ。

毛利興元が高橋氏の娘と結婚した年は、わかっていないようです。
なので、物理的な線からちょいと攻めてみますか(笑)。


え~っと、かの有名な「3年B組金八先生」では中3同士で子供を造ってしまうという、
今から考えるとかなりショッキングな事件が含まれてましたが、
鶴見辰吾が15歳で杉田かおるを孕ませたということは、
一般的に考えてもその位の年で男子は生殖能力があると考えていいんだよな。

ま、世界には男女ともにひとケタで子供を造っちゃったという、
考えるだに恐ろしいお子ちゃまもいますがショック

15歳といえば元服適齢期でもあるし、竹原にし殿を造れる最も早い年を
興元15歳の時と仮定すると、その年は永正4年(1507)。

いちおう、竹原にし殿と幸松丸は高橋氏の娘から生まれたような記述になってるので、
幸松丸が永正12年(1515)の1月1日に生まれたとしても、
竹原にし殿の最も遅い生年は永正11年(1514)の年初。

永正4年~永正11年の期間からさらに竹原にし殿がお腹にいる期間を除くと、
竹原にし殿と幸松丸との年齢差は最大で6歳ぐらいの計算になる。


毛利興元の結婚時期を何とか絞れないものかと考えてみたけど、
なんとも・・・
ただ、上の相関図は永正9年の一揆締結に関連しての結婚ラッシュの説明として
使ったもの。(記事は「鏡山城(9)」をご覧ください)

ここで興元が実力者・高橋氏の娘を娶った可能性もある訳だよな。
もしそうだったとしたら、竹原にし殿と幸松丸との年齢差は1歳ぐらいになる。



自分でもつくづく、こーゆーの好きだよな~と笑っちゃいますが、
どうも一般的に説明されてるだけの文章では満足できず、
リアルに自分の頭で考えたいと思うようになっちゃったのでね。

新高山城の遠足イベントのレディースデーの記事の中で、
竹原にし殿のことを「別のシリーズで簡単に触れるつもりだけど」と書いたけど、
もちろん「別のシリーズ」はこの神辺城の記事を念頭に置いてはいたものの、
竹原家の状況などの背景までは書くつもりはなかった。
ホントに簡単に紹介するつもりだった。

でも、私が悪いんじゃありません。
それだけ、竹原にし殿が歴史ファンの興味をそそる
波乱の生涯を送られたんだと思ってくだされぱー
結構、にし殿の年を計算してる人って多いのよ(笑)。


毛利本家の勉強については相変わらず進んでませんが、
どうも永正9年の一揆との関連がクサい気がするので、
とりあえず竹原にし殿は幸松丸の1歳上(永正11年生まれ)として話を進めます。



竹原にし殿が小早川興景と結婚した時期もわかっていません。
ただ、実は彼女はこの時が初婚ではなく、バツイチだった。

最初の夫は、備後の有力国人・山内豊通。
バツイチといっても、死別だったようです。

豊通さんも若くして亡くなったようで、詳しいことは全然わからない。
その父・直通は西国の戦国の歴史では結構メジャーな人ですが、
生没年不詳な上に割と長生きしたっぽいので、
このオヤジから豊通の生年を絞るのは困難。つか無理。

ウィキペディア等で簡単に調べたところによると、
父の直通は天文4年(1535)に元就と盟約を結び、
その翌年には尼子氏によって居城を追われたらしい。
で、一時は豊通が当主として活動した形跡があるという。

天文4年の盟約で仲良しさんの証として竹原にし殿が嫁いだ可能性もあるけど、
天文5年に直通が追われるまでには豊通が亡くなっているものと思われるので、
天文4~5年の結婚だとかなりハードスケジュール・・・

それに、毛利家から山内家に嫁いだ女性はそれ以前にも数人いるので、
盟約を結ぶ以前に嫁に行ってた可能性も多いにある。

が、少なくとも天文5年以前に最初の夫と死別しているとはいえるだろう。
天文5年時点で、竹原にし殿22歳。


とすると、竹原小早川興景との結婚時期は少なく見積もっても
天文6年(1537)~興景が死ぬ前年の天文9年(1540)。
最後尾を天文9年としたのは、天文10年は興景は年初からずっと
陣中にあったからです。
もちろん、山内豊通の没年がわかってない以上、
天文6年よりもず~っと遡る可能性も大いにありますが。


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最終更新日  2013年09月08日 15時53分24秒
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