特別活動の実践 2
>やりがい・教師という仕事をしていてよかったと感じることは何ですか? 高校生からの質問の続きですが、これに答えつつ表記のテーマについて述べたいと思います。 大変なこともありますが、いろいろな場面で子どもたちの成長に立ち合えるのです。これほどやりがいのある仕事はそうないのではないか、と勝手に思っています。 たとえば授業を通して大きな手ごたえを感じることもできます。授業をきっかけに、 「本当の学び」が成立すると「世界の見え方」が違ってくる。これまでと違った仕方で世界を見ることができるようになるのです。 現実に存在する様々な問題を自分自身の問題としてとらえ、「社会を変えていきたい、よくしていくために力を尽くしたい」、とか「学校の社会科の先生になっていろいろな問題を一緒に考えたい」、といいながら大学に進学していった生徒もいます。 そして、私なりに力を注いできた特別活動。 前回、触れましたが担任になった当初の失敗、挫折があまりにも強烈だったので、翌年「子どもたちが成長していくようなクラスづくりができた」、「HR指導の失敗を自分なりに何とか乗り越えた」、と実感できた時にはなんともいえない喜び、充実感がありました。 「特別活動の実践」に関して私自身の体験をもう少し語ることにします。失敗した年に取り組んだテーマは「クラスの自主管理」、翌年に取り組んだ中心テーマは「遊び」でした。 「クラスの自主管理」は、たとえば掃除サボりや教室管理、遅刻、授業に向かう態度なども含め、「班長会(クラスリーダーの会)」がクラスの問題点を分析して、クラス全体に目標を提案→一定期間クラス全体で点検をしながら取り組む→総括する、というものでした。 このような活動を繰り返し行いましたが、「班長(リーダー)は担任の回し者」と見なした男子のグループがしだいに勢力を強め、結局、クラスはバラバラになってしまったのです。(このようなことになる危険性は、小学校段階よりも高校段階のほうが大きいでしょう。) さて、特別活動の大きな目的の一つは「体験を通して民主主義(討議・決定・実行・総括といった活動の大切さ)を学ぶ」ことだと私は考えています。 そして、討議の出発点は「要求の組織」である、つまり、子どもたちが自分たちの要求・願いを言葉にし、討議をしながらみんなの要求としてまとめあげていくことだ、というのが従来からの全生研、高生研の考えです。 さて、そうすると、「クラスの自主管理」が高校入学当初における大部分の生徒の「ありのままの要求であったのか」、 「民主主義の形を作ろうとしただけではないか」という疑問点、反省点が浮かび上がってきます。 マカレンコは『教育詩』の中で「人間的な活動の原動力は“明日への喜び”であり、単純でわかりやすい喜びをまず活動の中で生み出すこと、そして、それをしだいに人間的により価値の高い喜びへと発展させていくこと」の大切さを述べていました。 そのような「読書」の成果を踏まえて、翌年、私のクラスでは、例えば班の輪番で「クラスレクリエーション」を企画し、責任を持って成功させる、という取り組みを繰り返し行いました。 クラス替えの当初、「なるべく楽しく遊んで打ち解けていく」という取り組みは、ほとんどの生徒の支持を得て盛り上がったのです。 それは「楽しさ(快楽)の追求でしかないのでは?」と思えるかもしれません。しかし、活動の中で花開いていくのは単に「楽しみたい」という要求だけではありません。班で輪番に「レクリエーション」を担当・実行するということは、企画を一生懸命考えて「みんなに楽しんでもらう」という価値ある「喜び」を目指すことでもあるのです。 toshiさんがブログ記事で紹介されている事例 では、『1年生を迎える会』について上級生が真剣に話し合っている様子が報告されていますが、その話し合いが成功した大きな要因は「新入生に喜んで欲しい」という上級生の願いであり、 「喜んでくれることをうれしく思う」という人間的な「要求」が背景にあるからでしょう。 「縦割りの取り組み」が成功しやすい理由(toshiさんの言われる「必然性」)もそこにあるのではないか、と思うのです。 子どもたちの要求、願いから出発しつつ、みんなにとって(個人や集団・社会にとって)よりよいことは何か、真剣に話し合い実行に向けて動き出す力、振り返る力をつけることこそが、民主社会を形成する主権者として成長していくことなのではないでしょうか。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)